小説「散文家たち」第21章 闇
鼻をつままれてもわからないほどの、まっ暗い闇だった。
おまけにいくら耳をすましても、物音ひとつ聞こえない。
「ここって、いったい───」浅見司がささやいた。「どこだと思う?」
「それよりも、ここに来てから、どのくらいたったと思う?」みどりが不安そうにつぶやく。「朝子、あなたの腕時計って、暗がりでも見える文字盤じゃなかった?」
「そうなんだけど」朝子の声だ。「今、つけてない。十七世紀にそんなもの、ただの銃士風情が持ってるかって、峯さんに怒られて」
「そうよね、あたしたちの今のかっこうって、現代の文明の利器ってものと一切関係ないもんね」司も吐息をついた。「あたしも携帯、ポケットに入れてたんだけど、一回、切り忘れてて舞台で鳴り出して、美尾さんにその場で取り上げられちゃった」
「あたしたちを、ここに連れてきたのは誰だか、皆、わかってるの?」朝子が、それがわかっていないのは自分一人ではないのだろうかというような、わずかな不安のにじむ声で聞いた。
「わかるわけないわ」みどりが言下に否定する。「カ-テンコ-ルが終わってほっとしたとたん、いきなり幕の後ろにひっぱりこまれて、帽子とマントをひったくられたと思ったら、頭からすっぽり袋をかぶせられちゃったんだもの───司が『美尾さんですか?』って聞いたから、何となく、あ、そうなのかと思っちゃって───でも何か、ちがうみたいね」
「うん、はじめはてっきり、またあの人たちのいたずらだろうと思ってたんだけど」司も口ごもる。「何か、ちがうよね、どことなく。美尾さんたちとは、することが。ずうっと回りに何人も人がいるのに、誰もちっとも笑わないし、このへやにあたしたちを入れて帽子とマントを返してくれて、袋かぶせたまま、まっ暗い中に置き去りにして───。することにちっとも、何ていうのか、明るさがないもん」
「ないよねえ」朝子がため息をつく。「袋を脱いだら何か見えるのかなあって思って頭から取ったら、やっぱりまっ暗だなんて、いやだよねえ。マントはともかく、この帽子、一応かぶったけど、きっと誰かのと入れちがっちゃってるよ。羽の色とかも、わからないし」
「あのさ、明るくないってのはそういうことじゃなくて───そういうこともだけど」司は自分の感じていることを何とか説明しようとした。「この感じって、『クリスマス・キャロル』に出てくる未来のクリスマスの幽霊みたいじゃない?あたしたちをここに連れてきた人たちのことよ───まっ黒っぽくって、全然得体が知れなくって。あたし、あの話に出て来る現在のクリスマスの幽霊って、めちゃくちゃ美尾さんっぽいよなあって、いつも思ってた。陽気でゴ-ジャスで、生き生き輝いてて。さっきの人たちって、そういうところがまるでないもん。ひやっこくって、し-んとしてる」
「し-んとしてるって言えば」みどりが不安そうに、「しのぶ、いるよね?」
「うん」闇の中から、いつもの落ち着いた声がした。
「ねえ、しのぶはどう思う?」朝子が声のした方を向く。「美尾さんたちじゃないとしたら、誰が何のために、こんなことしてるの?」
「わからないなあ。あたしも実は、ちらっと思ったんだけど。美尾さんとか峯さんとかが、あたしたちにバスチ-ユの恐怖でも味あわせて、リアルな演技をさせる気なのかなって。でも、今日が最終日なんだから、それはまさかないし。さっきの司のクリスマスの話で思い出したけど、クリスマス公演には、あたしたち四人を戦車ひっぱる馬にして『ベン・ハ-』をやろうかって南条さん言ってたけど、その練習にはちょっと早すぎるよね。どっちみち、あの話にも地下牢は出るけれど、馬に地下牢の雰囲気教えたってしょうがないだろう」しのぶは、ちょっと言葉を切った。「おどかすわけじゃないけどさ───みどりと司、短剣、持ってる?」
「持ってるよ」
「───使える?」
ちょっと沈黙があった。
「───どういう風に?」みどりがやがて、用心深い口調で聞いた。
「あんまり、気にしなくってもいいんだけどさ」しのぶは、なるべくさりげなく話そうと努力しているようだった。「何か、やな感じがするんだよね。司の言ってたのと同じことかも知れないんだけど。これが、美尾さんたちじゃないとすると───けっこう、いやな相手かもしれない」
「それ何?」朝子の声が、たちまち震えた。「ひょっとして、に、人間じゃないってこと?」
しのぶは、ちょっと笑ったようだ。「なら、まだいいんだけどね、朝子」
「この短剣で、戦えっていうの?」司が半信半疑の声を出した。「誰かを刺せとか、そういうことなの?」
「舞台じゃともかく、現実には、その長い剣は振り回せないだろ?短剣の方なら、何とかなるんじゃないかと思って」
「しのぶ、あの人たちが誰かわかるの?」みどりが、せきこんで聞いた。「何をするつもりなのかも?あたしたちをつかまえて、ひきかえに、演劇部に何かを要求しようとしてるの?それとも何か、あやしげな秘密の儀式のいけにえにでもするつもり?」
「やめてよ──」朝子がおろおろする。
「大丈夫よ、朝子」おだやかに、しのぶはなだめた。「私にも、何が何だか、まるっきり何もわかってないんだったら。ただ、ここまで黙って言うなりに連れて来られたのは、ちょっとまずかったって思ってるだけよ。この半月ってもの、わけもわかんないままで、回りの言う通りに夢中で動くのに慣れてたもんだから、それでつい、ぼんやりしてた。でも、今からはもう、チャンスがあり次第、一人でもいいから逃げようよ。一人、逃げたら充分だから。その一人がすぐに朝倉さんたちに知らせてくれたらいいんだから」
徹頭徹尾、しのぶの声はさりげない。いつも以上に暖かくて、落ち着いている。「あの子の、ものに動じないことと言ったら、いつか、その内、あの顔で静かにへやに入ってきて『すみません。ちょっとお知らせしておいた方がいいと思うんですけれど、海からゴジラが、上がりかけています』って報告するんじゃないかって心配よね」と、美沙が笑い、「もっと心配なのは、あの子の穏やかさにこっちまでつられてしまって、『ああそう、わかったわ。じゃ昼食は食堂じゃ無理ね』とか、言いかねないって気のすることさ」と、さつきが答えたことがあるのだが、まさにそういう雰囲気だった。だが、三年生とは違って司もみどりも、朝子でさえも、ただならぬ状況になればなるほど、こうやって、あっさり何でもないように話そうとする、しのぶの癖はよく知っている。声と口調の穏やかさに慰められる一方で、三人は否応なしに緊張した。
「短剣はあたしも持ってるわよ」朝子が、おずおず申し出た。「戦った方がいい?しのぶ?」
「いいや、朝子は力があるから、それよりも、誰か、相手の手ごわそうなのに飛びついて、その場にひきとめてくれてたらいい」しのぶは言った。「あたしも、そうするから。今度、あの人たちが入ってきたら、すきを見て一番のリ-ダ-に、あたしがとびかかる。それを合図に、司とみどりは───どっちが足が速いんだっけ?」
「みどりだわ」
「じゃ、みどりを逃がすようにして───できれば二人とも逃げて。短剣を見せびらかして脅かそうとしたりしちゃだめだよ。そんな余裕はないんだから。すぐに切りつけて、ひるませて。傷つけるのを恐がらないで。殺してもかまわないつもりでやらないと、かえって危ないよ。私も、そのつもりでいるんだから」
「そんな相手なの?」司が息を呑む。「そんな相手と───思ってるの?」
「思ってないよ」しのぶは笑ったが、三人はもはや、その声の中に、顔が見えない分だけかえって、おさえた決意と激しい闘志をはっきり感じることができた。「ただ、ひょっと、そんな相手だったら困るからさ───それだけのこと」
「でも、しのぶなら大丈夫だよね」不安げな中にもどこか、信じきった明るさのこもる声で朝子が言った。「しのぶがいるんだから心配ないよね」
「またそうやって、人をシェパ-ドか秋田犬みたいに言う」
しのぶが苦笑した気配がした時、突然、闇の一角に光がさっとさしこんだ。
◇
はっと四人が思わずそちらに向き直り、帽子の羽飾りとマントのすそが、そろってゆれる。
逆光の中にまず浮かび上がったのは、目のさめるように鮮やかな紫色の髪だ。その後ろからすべるように真紅と金色の髪の頭が二つ並んで進んで来て、左右に分かれて紫色の頭の両側に少し下がって立ったと思うと、どこをどうしたのか天井の一角にぱっとまばゆいライトがついて、三人だけを照らし出した。
「地下の快楽の館へようこそ」紫の髪の少女が、しわがれた太い声で言った。「辛島圭子の主催する、この劇場でも、地上に負けない見事な演技の数々を見せてくれることと、あんたたちには、たっぷり期待をしているよ」
背が高く、肩幅が広く、男と言っても通りそうな身体つきは、どこかしのぶに似ていたが、似ているのはそこまでだった。タイツのようにぴっちり身体にはりついた黒いズボンとノ-スリ-ブの黒いTシャツ、かかとの高い黒いブ-ツをはき、むきだしになったたくましい肩にはバラと、とぐろを巻いたヘビとの入れ墨があった。その上、彼女は片手で大きな、うすみどり色のトカゲを胸に抱いている。起きているのかいないのか、金色の目を見開いたまま、トカゲはぴくりとも動かない。
辛島圭子は顔もいかつく、男と言っても通りそうだ。もともと、つりあがり気味の目を更につりあげるように濃くメ-クしているため、もう少しで目がたて向きに顔についているように見える。黒ずんだ口紅に、糸のように薄く細い眉。細めた目の光が異様に鋭い。 長く尖った黒く染めた爪の指で、ポケットから圭子が煙草をはさんで出して口にくわえると、たちまち左側の赤い髪の少女がさっと手だけを横に伸ばして、かちりとライタ-で火をつけた。彼女は白いシャツに黒いズボン。右側に立ってうやうやしく灰皿を捧げ持っている金髪の少女は、黒いシャツに白いズボンだ。
「ご苦労」圭子が軽くうなずく。
あっけにとられて見ていた四人がふと気がつくと、圭子たちがそこから出てきた狭い入り口から、十人以上の少女たちがしずしずと入って来ていて、流れるように左右に分かれてずらりと圭子の後ろに並んだ。
「さあ───」圭子が静かな声で言う。「これが、あなた方の心と身体を改造する、地獄の女神たちだよ」
また、ぱっと壁際のライトがついて、並んだ少女たちの姿を一気に照らし出す。皆、血のように赤い仮面を顔につけ、赤いタイツに身を包んでいた。それぞれが手にしているのは、さまざまな形と長さの鞭、鎖、手錠、それに注射器にメス。ライトの光にそれらがきらきらと、ぬめったような、さまざまな色合いで光りはじめている。
無言のままで少女たちは、儀式でもとりおこなうかのような、おごそかな足どりで、ゆっくりと左右の壁の前に進んだ。そのまま、壁を背にして立ち、四人の方に向き直る。取り囲まれる体勢になった四人に、圭子の声がまたかかった。
「何か、聞きたいことがある?言いたいことがあるなら聞こうか」
「あ、あたしたちを、どうするつもりなの?」
しどろもどろで朝子が口走るのと、しのぶが小さく咳き込んで、足をふみかえたのが同時だった。それを見て、はっと何かに気づいたようなみどりが、急にあせった目の色になり、「辛島さん!」と叫んだ。「あ、あの、ええと───」
「お待ち。質問にはひとつひとつ答えていくとしようじゃないか」圭子は黒い唇に、ぞっとするような喜びに満ちた笑いを浮かべて、冷たく乾いた低い声で言った。「どうされるのか知りたかったら、後ろをごらん」
言われるままに、四人は振り向く。もう目に見えて顔色が青ざめかけてきていたしのぶも、ひきよせられるように、そちらを見た。
壁際のその一角に、今度はぱっと赤味がかったライトがついて、血のような光の中に、皮のベルトがいくつもついた大きな白い診察台のようなベッドが浮かび上がった。その上の天井からは、鎖やホ-スやゴム管が幾本となくぶら下がって、背後の壁の上に奇妙な影を映し出している。ベッドの上には血のような染みがいくつもあり、足元には銀色に光るバケツが二つ三つおいてあった。
「説明するまでもないだろうけれど」圭子は、今度は金髪の少女がひざまずいて差し上げる灰皿の上に煙草をにじりつけて消しながら、あいかわらず低い声を出した。「まだ何か聞きたいかい?」
朝子は目をぱちぱちさせて黙り込み、みどりは何か言おうとして、しきりに口を開きかけては小さく首を振ってやめている。司が叫んだ。
「いったい、何のためになの?そんなことして、何になるの?」
「───司!」みどりのブ-ツが司のかかとをけっとばした。
その時また、しのぶが咳き込み、今度は小さくよろめいて司の肩につかまりかけた。それと、みどりのしぐさとに、はっと司も何かに気づいたようにみるみる青ざめ、みどりとせっぱつまった視線を互いに投げかけ合った。
辛島圭子はそれに気づかなかったようだ。あるいはただ、二人がおびえているのだと思っただけかもしれなかった。
「何のためって?こういうものを、作るためさ」
また一方の壁が明るくなり、そこに大きくひきのばされた、さまざまな写真が照らし出された。
「嘘───」朝子が手のひらで口をおおって息を呑む。
「なかなか需要が多くてね。生産が追いつかないほど、よく売れるのさ。それも、けっこう高値でね」圭子はゆっくり歩み出し、四人のすぐ近くまでやって来た。腕に抱いたトカゲが、きろりと目を回す。「でも、よく見るといまいち迫力がないだろう?皆、合成写真だからね」
圭子の背後に、ぼんやりと、三脚に立ったカメラと数台のパソコンが浮かび上がっていた。「でも、今夜、これからあんたたちをモデルにして撮影するのは、合成写真じゃないんだよ」
司とみどりは、何度も目を伏せ、また上げている。辛島圭子を見つめては何か言おうとするのだが、どうしてもそれが言葉にならないのだった。「ああ、だめ───!」司が絶望したように顔をそむけながら、誰にも聞こえないぐらいの小さい声でつぶやいた。「あたしって、ほんとに、センスない───!」
二人の様子に気づかなかった朝子が、その時なかば夢中になって、必死の抗議の声をあげた。
「何てひどいことするの!?こんなことして───こんなことして───あなたたちって、皆、正気じゃないわ!」
三つのことが、同時に起こった。
圭子が紫色の髪をふりたて、ぎょろりと目をむくトカゲの上で、狂ったようなけたたましい大声で哄笑した。
もうおしまいだ、と言わんばかりに、司とみどりが目をつぶり、それぞれ反対側に顔をそむけて、片手で顔をおおった。
そして片山しのぶは、声ひとつ立てないまま、がくりと膝からくずおれて、まっ青に血の気のひいた顔のまま、目を閉じて床の上に倒れてしまったのである。
◇
辛島圭子はトカゲを抱え直しながら、一歩後ろに後ずさり、しのぶを見下ろして一瞬驚いたように目を見張った。明らかに彼女も、この四人の中で一番───というよりただ一人、片山しのぶを手ごわい相手とみなしていたらしく、それがこうあっさりと何も言わずにいきなり倒れてしまったので、わけがわからず不意をうたれたようである。何か計略でもあるのかと警戒しているように、圭子はしばらく黙っていた。壁際に並んでいる少女たちも何となく動揺したように、顔を見合せ、こちらを見ている。
だが、立花朝子の方は、さっきの司と同じように、何かに思い当たったようだ。ああっという表情になって口に手を当て、他の二人といっしょになって、すぐにしのぶの上にかがみこんだ。
「しのぶ、しのぶ、しっかりして!」彼女は叫んだ。
「ちょっと、それって、まずいんじゃない?」司が早口で不安そうに注意する。
「あ、そうか!でも───」朝子はますます混乱する。
みどりは無言でしのぶを抱き起こしたが、固く目を閉じ、かすかに唇を開いたしのぶの顔は、あいかわらずまっ青で、息さえもしているようには見えなかった。
「へえ、この子、意外とデリケ-トだったんだね」ようやく安全と判断して近づいてきたらしい辛島圭子の、あざけるような笑い声が四人の上で響いた。「こんな楽しいお道具のいろいろを見せただけで、もう気絶しちまうのかい?こいつは、先が楽しみだね。手はじめに、この場面、アップでとらせてもらっておくとするか」
彼女が合図をすると、赤い髪の女の子が走って行って、カメラの一台をこちらに向かってすべらせて来た。
その時、また入り口に人影があらわれて、せっぱつまった叫び声がした。
「辛島さん!辛島さん!大変です!」
「騒々しいね。ちょうどいい時に」
舌打ちして圭子は、入り口の方へ戻って行ったが、少女が何か耳打ちすると、たちまちさっと顔色を変えて、回りを見回した。
「皆、おいで!」
鋭い声でそう言うと、彼女は先に立って入り口からかけ出して行く。他の少女たちもそれに続いた。
「そんなもの、皆おいといで!見つかったらどうすんだ、バカ!」圭子の叫ぶ声が聞こえた。
鎖や注射器が、がちゃがちゃ床に投げ出される音が響く。最後の一人が出がけにスイッチを切ったと見えて、へやの中はたちまちまた、初めと同じ、まっ黒い闇に包まれた。
◇
「司、スイッチの位置覚えてる?」みどりの声が響いた。
「うん、さっき見てたから、わかると思う」司がかけ出す気配がした。
「気をつけて。ガラスの注射器なんかがあるよ」
「大丈夫。ブ-ツはいてるもん。───あれ?このへんだと思ったのに?このスイッチじゃないのかな?」
「ちょっとやめてよ」朝子が叫ぶ。「手当たり次第に押してるの?天井から刃物とか、天井そのものが落っこちてくるしかけなんかが、もしあったらさ───」
「いくら何でもそんなもん、あるはずないよ。辛島さんって写真部だよね?なら、きっと、ここ、昔の大講堂の地下なんじゃない?写真部室の地下あたりの───美術部とか、いろんな部の部室が建ってる、あのへんの」司は、うれしそうな叫び声をあげた。「きっと、これだよ。ほら、ついた!」
ぱっと、あたりがまた明るくなる。ついたのは、さっき圭子たちを照らしていたスポットライトだった。司はすぐ、入り口のドアにとびついたが、これはそううまくは行かなくて、彼女はがっかりしたように首を振った。「しっかりカギがかかってる。そうだろうなあ、あいつらだって、それほどバカじゃないよなあ───しのぶはどんな?大丈夫?」
「だめ。息はしてるけど、これってめちゃくちゃ重症だわ」みどりは、しのぶのシャツの襟元をゆるめながら吐息をついた。「回復するまで、かなり時間がかかりそう」
「ごめんね。もっと早く気づけばよかった」朝子が、しのぶの顔にかかった乱れた髪をかきあげてやりながら、誰にともなく、しょんぼり謝った。
「でも、気づいてたあたしたちも、何もできなかったよ」みどりが慰める。「何たってやっぱり、あのトカゲは強力だったわ。あれが決定的だったのかもね」
「そう?バラとヘビの入れ墨だって相当のもんだったわよ」珍しく朝子が、怒ったように言う。
みどりはマントを脱いでたたむと、しのぶの頭をそっとその上に下ろして立ち上がり、へやの中を歩き回りはじめた。壁をたたき、天井を見上げる。
「───朝子。ちょっと来て」彼女は呼んだ。「ほら、あそこ。あの天井の、マンホ-ルみたいな丸い穴。かけがねがあって、錠がかかってるけど、古そうだから、はずれるかもしれない。あたしを肩に乗せてくれる?そうしたら、あそこに届くと思うの」
うなずいて身をかがめた朝子の肩に両足で立って、みどりは巧みにバランスをとって立ち上がり、天井にあおむいた顔を近づけ、調べていたが、やがて首を振って飛び下りた。「だめね。開けられそうにも、こわせそうにもないわ」
ちょっと沈黙がたちこめる。朝子がみどりの顔をじっと見た。
「───恐くないの?」
みどりも黙って朝子を見返す。それとなく、みどりに身体をよせながら、朝子はあらためて恐怖がよみがえってきたように、へやのすみの血に汚れたベッドや、カメラの列を目で追った。
「頼みの綱のしのぶは、こんなになっちゃったし、もうこうなったらあたしたち、あの人たちにされるままだわ。だのに、あなたったら、みどり───何だか、明るい顔してない?」
「そう見える?」みどりは笑った。「そうだとしたら、きっと安心したからだわ。朝倉さんも、南条さんも───美尾さんも、峯さんも、日村さんも───面白半分、あたしたちを、おもちゃにしたんじゃないんだって、わかって。それが一番恐かった。あの人たちがわけもなく、そんなことする人たちなのかって思うことが」
閉じたドアの入り口の方を、みどりはじっと見つめる。淋しげな、どこか冷たいまなざしだった。
「辛島圭子さんや、その手先の人たちが、あたしたちに何をしようと、そんなことなんか何でもないわ。あんな人たちは、いつだっているわよ。どこにだっているわ。あんな人たちが何したって、ちっともびっくりなんかしない。そんなことしかできない人たちなんじゃないの。全然、傷つきなんかしないわよ、あたし。あんな人たちに、それ以外のことなんか、期待する?泥の中にいる豚に、臭い息以外のものなんて出せるわけない───ああ、でも、こんなこと言ったら、豚に悪いわ。南条さんに怒られる。あの人たちって、それ以下だもの。比べ物にもならないぐらい」
みどりの声に深くこもる、さげすみと哀れみに、たじろいだように朝子はちょっと身体をひいた。それに気がついたのか、みどりはまた、いつものちょっと頼りなげな、はにかんだような笑顔になった。
「あたしが一番恐かったのは、朝倉さんたちが信じられなくなることだった」彼女はくり返した。「それがもう、大丈夫だってわかったんだもの。何が起こっても、何をされても、あたしもう平気、ちっとも恐くなんかない」
「でも───」朝子は口ごもった。「朝倉さんや美尾さんたちだって、やっぱり、あたしたちのこと、ちょっとはだましてたわけでしょう?」
「そうだよね。そうなるよね」みどりは笑った。「でも、いいの。それは許してあげられる。あたしたちを、おとりにして犯人つかまえようとしたのか、他に計画があったのか───それに手ちがいがあったのかどうか───そんなこと何も、今はまだわからないけど、とにかく、何かわけがあったんだって、それがわかっただけでもいい。あの人たちだって、平気じゃなかったんだよ、朝子。わからない?今、思い出したら、美尾さんはこのところずっと、変にはしゃいで悪ふざけしすぎだったし、日村さんは妙にあたしに優しかった。いつものあの人らしくもなくて、まるで何か気がとがめているみたいに───わけもなく、『絹のハンカチ、お入り用じゃない、アラミス?』なんて言って、すごい立派な新しい白いハンカチ、突然くれたりするんだもの。どうしたのかって何度も思った。それに峯さん───」
「峯さん、めちゃくちゃ怒ってばっかりだった───」
「ごまかしてたのよ、他の皆と同じように。気がとがめてるのをかくそうとして、それで調子が狂っちゃってたのよ、あの人たち、皆。その分、きっと今ごろ、必死になって、あたしたちのこと、さがしてる。そして、絶対、あたしたちのこと見つけ出す。時間の問題だよ、朝子!時間だけ、かせいでいれば、いいんだよ!そうしたら、あの人たちがその内に必ず、ここを見つけてくれるって!」
「そうだよね───」たしかにそうだと思い当たったような無邪気な微笑みが、ふうっと朝子の顔をまた明るくした。「そう言えばそうだよね。峯さんは絶対、来るよね」
みどりはうなずいた。「時間をかせぎさえすればいいの」彼女はくり返した。「心配しないで、朝子。あの人たちが戻ってきたら、最初にあたしを、あの人たちの好きなようにさせて。いくらでも時間をひきのばしてあげるから」
「でも───」再び、朝子の目が動揺する。「でも、みどり───」
みどりは首を振り、ほおえんだ。
「心配しないで」彼女は言った。「あたしはあなたや司とちがう。苦痛にも屈辱にも、強いのよ」
◇
何か言いたそうに、ふしぎそうに朝子がみどりをじっと見つめる。それにはかまわず、床に横たわったままのしのぶの方に戻りかけて、みどりがふと足をとめた。
「司。何をしているの?」
司はぼんやり、床に落ちていた鞭や鎖や注射器やメスを拾い上げては、それをきちんとかたわらのベッドの枕元の机の上の箱に入れたり、くるくる束ねて壁のフックにかけたりしていた。みどりに声をかけられて、はっとしたように彼女は手をとめ、立ち止まる。
「やだ───あたし、何してるんだろう?」
「何をしているかですって!?」珍しくみどりが、辛辣な口調で言った。「あなたは、そこを片づけて、ちらかったものを使いやすいように、きちんと整理しているのよ!やめてよね、司、もう!ポルポト政権下だか、どこか、とにかくあっちこっちで、銃殺される人が自分の死体を埋める穴を殺される前に掘らされるって話は聞いたことがあるけれど、拷問にかけられる人が、その前に、拷問台や責め道具を自分でセットするなんて話、どこの世界でも聞いたことがないわ、それも自主的になんて!ほんとにもう、いいかげんにしてちょうだい、いくらあなたが、お掃除好きの片づけ好きでも!」
「ごめんなさい───」言われている内にようやくだんだん、さっきから本能的に自分がしていたことに気がつきはじめたのか、司は思わずよろよろとよろめき、後ずさりして壁にもたれた。「あたし、別に、そういうつもりでは───」
かたわらの、さっき自分が鞭を束ねてかけたフックの一つを後ろ手につかんで、ぶらさがるようにして、司は自分の身体を支えた。
とたんに、床が動きはじめた。
きしむ音さえ、ほとんどしなかった。なめらかに、すべるように、司の足元の、今まで石だたみの石の一枚としか見えてなかった灰色の床が、次第に下がって斜めに下へと開いたのだ。人がやっと通れるくらいの小さい四角い穴だったが、ふうっとたちまち、その下からは冷たい風が吹き上がって来た───かなり長い道か広い空間が、その下にあることを示すかのように。
声も出せずに驚いて、見つめている司より早く、みどりと朝子が飛んで来て、穴のふちに身体を投げ出すようにして中をのぞきこんだ。
「───逃げられる?」朝子があえいだ。「ここから?」
「わからない。でも───」 みどりは、ようやく、かがみこんできた司と目を見かわした。
「しのぶを連れて行くのは無理だわ」彼女は固く唇をかんだ。「あの人たちが、いつ戻って来るかわからない。ぐずぐずしてたら追いつかれる!」
「みどり。あなたが行って」司が手を伸ばして、みどりの帽子を取った。「この穴は、ふさいでおくわ。ふさげなくっても、あたしたちでなるべく追手をくいとめる。行って、助けを呼んで来て!」
みどりはうなずき、ためらわず穴の中へと、すべりこむように下りて行った。
「大丈夫?進めそう?」入り口のドアの方を気にしながら、司が上から呼びかける。
「うん、何とか立って歩けそう。細い道だけど、ずっと向こうに続いてて───これって何か、昔の排水管か下水道なんかのあとみたい」みどりの声が、少しずつ遠ざかった。「一本道だから、とにかく行けるとこまで行って見るから───きゃああああっ!!」
みどりの鋭い悲鳴が穴の中にこだまして、上の二人はぎょっとした。大丈夫ともどうしたのとも聞き返す間がない内に、息をきらしたみどりが、乱した髪にクモの巣をつけ、顔をあちこちほこりで汚し、まっ青になって穴からはいあがって来た。
「嘘だわ───そんな──!」穴のふちに腰かけたまま、彼女は肩であえいでいる。大きく目を見開いて、完全なパニック状態だ。「何で、何でなの?どうして?何でもう、こんなところに───こんなところに、メリルがいるのよ!?」
◇
「───メリルですって?」呆然と司が聞き返す。「あの、山羊の?」
朝子はなかば逆さまになって、穴の中をのぞきこんだ。「いないよ、どこにも、山羊なんて」
「いたっ!いたのよ!絶対にいたの!いたんですったら!」みどりは大きく首を左右に振った。「角を曲がったら、あたしのまん前に立ってたのよ!見ちがえるものですか、あの顔を!あたしを見て、にやっと歯をむいて、笑ったの!」
「みどり、落ち着いてよ」司が言った。「ここ、地下よ。この下は地下二階の深さで、多分、海面よりもっと下よ。こんなところにどうして、あのメリルなんかがいるのよ?そんなわけないでしょ?ありえないわよ!何かと見ちがえ───」
「いたんだったら!本当にいたんだったら!あれはメリルよ、絶対よ!」みどりは泣きそうになってくり返した。「司、あたし、いやよ、メリルがこの下にいるんだったら、行けないわ!あたし、行けない、絶対に行きたくない!」
「苦痛にも屈辱にも強いんじゃなかった?」朝子も、あきれたように声をあげる。
みどりは激しく首を振った。「苦痛にも屈辱にも強いけれど、メリルはいやっ!」
「もうっ!この意気地なしっ!」司が叫んで帽子を地面にたたきつけた。「とっとと、そこをどきなさいっ!あたしが行くわよっ!メリルが何なの、あんな山羊なんか、マトンにして食ってやるからっ!」
「マトンは、羊よ──」何か考えているらしい朝子が、上の空で訂正する。
司は朝子をにらみつけ、竜子にいくら叱られて指導されても出なかった、すごみのある声でどなった。
「───手ぶくろにしてやる!」
そのまま、穴に飛び込みかけたが、その時朝子が、これまた竜子にさんざん演技指導されてもやっぱりできなかったはずの、ものすごい迫力と荒々しさのこもるしぐさで、司を後ろに突き飛ばした。
「入ったらだめ、司!行ったらだめよ!あんたの言った通りだわ、こんなとこにメリルがいるわけないでしょ、もし───もしそれが、メリルでなかったら、どうするの!?」 「メリルでなかったらですって?」突き飛ばされて、石の上にあおむけにひっくりかえった司は、起き直りながら息をはずませた。「いったい、それって何のことよ?」
「悪魔って、いろんなものに姿を変えるの。もし───もしもそのメリルが、メリルじゃなくって、この地下にいる何物かで───」
「二人ともっ!」司ははね起き、二人の方につめよった。「この状況ってものを全然、把握してないでしょう!?あのベッドを見たの?鞭を、手錠を、ゴム管を、あの写真を見たの?ここに残って、辛島圭子たちによってたかって、あんなこと、されたいのなら残りなさい!しのぶが、あたしが、あんなこと目の前でされるのを、見ていたいんなら、残りなさいよっ!あたしはごめんだわっ!どいてよっ!」
「だめよっ!」
司と、何とかしぶしぶまた、穴に戻ろうとしかけたみどりを、すさまじい力で朝子がさえぎる。身体が大きく、ふっくらしている分、こうやって必死になると朝子は二人を押し止められた。激しくもみあっていた三人の耳に突然、弱々しいがはっきりとした、しのぶの声が届いて来た。
「司!───みどり!聞いて───足音───!」
はっと三人が動きを止める。さっき閉まった入り口のドアの向こうで物音がしていた。大勢の足音が入り乱れるような、人と人とが争うような───。
司が壁に走って、さっきのフックを力いっぱい押し上げた。朝子とみどりは、しのぶの所へかけ戻る。司が床の上の帽子を拾って、みどりの方に投げながら三人の方へとすべりこんだ時、石はようやくゆっくりと元に戻って穴は閉ざされ、ほとんど同時に入り口のドアが再び大きく開かれた。