小説「散文家たち」第32章 小川のほとり

教育研究集会のご成功、おめでとうございます。私がただいまご紹介にあずかりました野々宮艶子でございます。現在、小日向町という山の中の村で、子どもたちとともに村おこしにとりくんでおりまして、そのことを書きました本が昨年、春山文化賞を受賞するということになりまして───でも、ごらんのとおりのまったくの普通のおばさんでございまして(笑)、このような全国の小中高校の先生方がお集まりになって、教育問題について話し合う立派な大きな集会の最終講演の講師などをおおせつかりますと、こうして壇にのぼりましても、身がひきしまるというよりは、身のすくむ思いがいたします。
実は、こちらに来る前に、お話する内容は私なりに決めておりました。でも、この一週間、皆さまとともに、さまざまな分科会に参加して討論を聞いてまいりまして、いろいろ考えさせられることがあり、今日は最初に予定していたのとは、少し違う内容でお話をさせていただきたいと思っております。

「もう少し、いろいろ調べてからでも、遅くないのじゃない?」美沙が言った。
さつきもうなずく。「何も、今、あせって、地下に下りなくても」
「私の言ったことを、二人とも聞いていなかったの?」京子は鋭い、冷たい口調で言い返した。「地下の水路で私たちが見た者が何だったのか知らないけれど、それは、学内だけじゃなく、学外からも人をさらって、このたった今も、あそこで苦しめている可能性があるのよ。それを放っておくって言うの?」
「だから、それは何も今、あの地下道に下りて行かなくても」さつきが言った。「もっと他の手がかりからでも、あの者たちの正体をつきとめればいいことだわ」
「二人とも、なぜそんなにあの地下道を避けるの?」京子は、苦々しげに言った。「まさか、信じているのじゃないわね。悪魔だの、鬼だの、秘密の組織だのって───」
「京子、喧嘩を売らないでよ」美沙が、目を閉じた。「あたしたちに踏み絵を踏ませるような言い方をしないで。あたしだって、さつきだって、迷信家じゃないし、臆病でもないわ。でも、あの地下道にいた者は、あたしたち三人が簡単に相手ができるようなものではない。もっと、慎重に───」
「行かない前なら、見ない前なら、知らない間なら」京子はつぶやいた。「それも一理あると思う。でも、私たち、もう、あそこに行って、見て、会ってしまった。何かはわからないけど、何かがあそこにいたことは確かで、見た以上は正体を確かめる責任があると思う。知らないふりも、見なかったふりも許されない。逃げたくはないわ」
「結局は、それなんでしょう」美沙が、疲れた声で言った。「あなたは、逃げたくないんだわ」
果樹園のはし、小川のほとりの葡萄棚の下だった。石のベンチに座った京子の足元に美沙が、少し離れた草の上にさつきが座っている。眠たくなるような暑い午後だ。川の流れる音が優しく低く響いていた。夏やせの気配もない太った猫のジャコポが、高く茂った草の間をどさりどさりと飛び回って、バッタをつかまえようとしている。
「あなたは、あの地下道で会った影に、負けたくないのよ」美沙は繰り返した。「何もしないで逃げたのが、しゃくなんでしょう?でも、今、無理にあの何者かの正体を知ろうとするのは危険だわ。本当に、それが学外からも人をさらって来ているというなら、なおのこと、あたしたちの手にはあまるわ」
「あなたは、本当に平気なの?」京子の口調は氷のように冷たかった。「私たちの知っているかもしれない誰かが、罪もない人たちをさらって苦しめているかもしれないのに、悪の組織とか、呪いとか、わけのわからない理屈をつけてごまかして、現実から目をそらしつづけていても?」
「あたしたちの知っている誰かだと思うの?」さつきが低い声で聞いた。「あの、地下道で見た影が?」
「可能性はあるでしょう」硬い表情で京子が答えた。「その事実を認めるのを恐れて、四月からずっと何もしないできた自分が、私、今、つくづくいやになっているの。この前の部会でああやって皆に、これまでわかっていることを話したからには、もし犯人があの中にいたら、やろうとしていることを急ぐと思うの。だから、こちらも、ぐずぐずしている暇なんてない」
さつきは黙って、ゆううつそうに、長いふさふさした髪をかきあげた。

それにしても、美しい町ですね、この藻波市というところは。そして、さすがに古くから栄えた港町というような文化の香りがいたします。
市長さんに勧められまして、麗泉学院ですか、あのきれいな女学校の───女学校という言い方自体が何か古うございますよね(笑)───生徒さんたちのやっている夏休み公演の劇を先日見てまいりましたが、大変な水準の高さで、田舎者の私にはカルチャ-ショックでございました。(笑)
実は、今日は、この劇のことについてお話したいと思っております。なぜかと申しますと、先程申しましたように、この一週間、さまざまな分科会で先生方の討論を拝聴してまいりましたが、その中で印象に残ったもののひとつに、国語の分科会で議論されていた問題がございまして、それは、「文学教材を扱った授業は、生徒たちも面白がり、自分も熱が入るのだが、説明文の授業というのは、どうも退屈になりがちだし、そもそも、どうして説明文を子どもたちに教えなければならないのか、切実な理由が見つけられない」というのです。「たとえば、戦争の悲惨さとか、差別の残酷さとか、生きる喜びとか、そういうものを文学教材からうけとって、感動することで、心の豊かな、思いやりのある子を作ることは今とても大事だとわかる。しかし、説明文をなぜ教えなくてはならないか、切実に実感できる理由があったら教えてほしい」と求められて、アドバイザ-の先生も私も、絶句してしまいました。(笑)
私は、この劇の話が、もしかしたら、このことに対するお答えになりはしないかと思います。そして、それは国語だけでなく、他の教科にも共通する大きな課題と結びつくようにも感じているのでございます。

「どっちみち、今はあの図書館の隠し扉は使えない」美沙が言った。「知っているでしょう?小石川ナンシ-がこのごろ、わりとひんぱんに校史編纂室に出入りするから、沢本さんがしばらく、あそこに忍び込むのは控えてほしいと言っているのを」
「あなたが見つけた、日時計の横の入り口があるじゃないの?」京子は言い返した。
「あれは───ただ単に、下へ入って行ける穴があったというだけで、地下道に通じているっていう保証はないわ」
「だったら、急いで確認しなきゃね」京子はにべもなく言った。「みどりが、地下でメリルを見たというからには、その日時計の入り口は少なくとも写真部室の地下にはつながっている可能性がある」
「京子」美沙が吐息をついた。「どうして、そう、急ぐのよ?」
「あなたこそ、どうしてそう、ためらうのよ?」京子はじりじりしたように、美沙を見つめた。「傷つけられている人がいるかもしれないという時に、助けに行くのをためらうあなたじゃなかったはずだわ」
「今度のこの件で、うかつに動くのは禁物だわ。さらわれている人がいるということだって、噂にすぎないし、確認できてるわけじゃない。私たちが相手にしている敵はとても大きくて、途方もない力を持っている気がしてならない。しっかりした見通しもなく、うかうか乗り込んで行って、もし、私たちが滅ぼされてしまったら、傷つけられている人たちを救うことだってできなくなるのよ」
「そんなのは皆、逃げだわ」京子はきっぱり言い切った。「とにかく、私は明日の朝にでも、あの日時計から地下に入る」
「ちょっと待ってよ───」さつきがあわてる。
「いっしょに来てくれとは言っていないわ」静かな声で京子が言った。
「その言い方はいったい何よ!?」かっとしたように、さつきが立ち上がる。
美沙が、その腕をつかんで座らせ、京子の顔をじっと見つめた。
「あなたが行くなら、いっしょに行く。でも、もう一度だけ、考えて見て」
「考える余地はないわ」そう言い捨てて立ち上がると、京子は一人で川の方へと下りて行った。

先生方は、「赤毛のアン」のお話をご存じのことと思います。でも、あの話には大変長い続編があり───作者は書くのにうんざりしていたようですが(笑)───その中で、アンは幼なじみのギルバ-トと結婚して、夫が医者として開業した海辺の村に住むようになり、たくさんの子どもに恵まれるのをご存じでしょうか。
このシリ-ズの最後の一冊「アンの娘リラ」は、そのアンの末娘であるリラが主人公です。今回、私が見た劇が題材にしているのは、この一冊です。
劇を見たあと、私も大急ぎで原作を買って(笑)読みました。お読みになった方はご存じのように、この一冊はシリ-ズの中では、とても異色です。何よりも時代背景がとてもはっきりしています。「赤毛のアン」の時代がいったいいつかと聞かれて、とっさに言える方は少ないでしょう。アンが少女として、学生として、若い教師として、そして妻として母として生きる時代は、いつの時代といっても通用するように、あまり特徴がありません。平和で、平凡な庶民の幸福な暮らしは、いつの時代も変わらないことを、それは示しているかのようです。
この「アンの娘リラ」だけは違います。これは、第一次大戦の勃発から終結までを時代背景としています。アンの住む海辺の村があるカナダも、それに参戦し、人々は毎日、世界情勢を伝えるニュ-スに一喜一憂することになります。アンの家のお手伝いのス-ザンが、ギリシャがどちらの味方につくかを心配し、皇帝の妻がドイツ女だから安心できないと言って、「まさか、ギリシャの皇帝のコンスタンティノ-プルがどんな家内を持っているか、私が気にするようになるとは思わなかった」(笑)と語るようにですね。
当然、アンの息子たちも志願して参戦し、ヨ-ロッパで戦います。そして、その一人は永遠に帰りません。
ちなみに、私の友人何人かに聞いて見たところ、この「アンの娘リラ」を読んで知っていた人は皆、「細かい筋はもう忘れたけど、アンの息子のウォルタ-が戦死したということだけは、よく覚えている」と言いました。「あの子が死んだ話だという印象が強い。そのことを思うと、今でもじわっと涙がにじんで来る」とか「彼が死ぬ前に書いた手紙を妹のリラが、彼をひそかに慕っていた友人のユナにあげる場面など、今思い出しても、泣けて泣けてしかたがない」とか言った人もいました。彼女たち、もう五十代なかばなんですけれどね。(笑)
この、戦死したアンの二番目の息子ウォルタ-・ブライスは、アンの子どもたちの中でも一番繊細で、詩が好きな、優しい美しい少年でした。少女たちの心を文句なくひきつけるキャラクタ-で、今でもきっと若い人たちには人気があると思います。
ちなみに、私が見た今回の劇でウォルタ-を演じた少女は、本当に、その感じをよく出していました。聡明さや優しさがとびぬけているため、どこかいつも周囲の人と違った光につつまれているような、そんなこと言っちゃいけませんが「ああ、こんないい子は早死にしそうだなあ」というような(笑)、見ているだけでも切なくなるような美しさがあって───妹のリラを演じた主役の少女と、本当の姉妹じゃないかと思うくらい似ているのですが、リラ役の少女の方は清らかでまっすぐだけど、そういう悲しい感じだけではなくて、むしろ元気な若々しさが表に出ていて、見ている人がつい微笑みたくなるようないちずさや明るさがあるのと、対照的でした。
実際、ウォルタ-は、この話の中では異色です。どうしてかと言うと、家族も、村の人も皆が、この戦争を正義の戦いと信じ、敵国ドイツをやっつけようと燃えているのに、彼一人は戦いを憎み、嫌悪し、戦場に行って「誰か他の人の父であり、息子であり、夫であり、恋人である人」を殺すことを恐れているからです。だから彼一人は、いつまでも兵役を志願しようとしません。そのために周囲から臆病者との非難をうけ、傷つき、苦しみつづけるのです。

「『リラ』の公演が終わったとたんにぶっ倒れるなんて、あんたも律儀っちゃ律儀だねえ」
峯竜子は、ベッドのはしに腰をおろして、みどりの額の冷やしたタオルをとりかえながら笑った。
「ごめんなさい」みどりは細い声であやまった。「半魚人のお面で、あんなに峯さんのこと脅かしたから、きっと罰があたったんだ。皆、そう言ってませんか?」
「皆は、あたしがあんな、出演者全員を消耗させる劇やったから、主役のあんたが右代表でひっくり返ったんだって、ひたすらあんたに同情してるさね。眉美が、桃の缶詰を持って来てくれてるし、美沙もス-プを作って来てくれてるけど、食べる?」
「まだ、いいです。それに、主役はあたしじゃないですよ。司と───しのぶと、奈々子でしょ?」
「でも、見てる方としちゃ、あんたが一番印象に残ってっからな。ウォルタ-ってのは実際もうけ役だよ」竜子はタオルケットをかけ直した。「それから、あのくだらない半魚人のお面で、あたしが腰を抜かしたって話は、誰にもしていないから、誰もあんたに罰があたったなんて思っちゃいないさ。───話しても、そうは思わないだろうがね」
「峯さんが、あんなので、あんなにびっくりするなんて思わなくって───」みどりは申し訳なさそうに、せきこんだ。「ちょっと、おどかすだけのつもりだったんだけど」
「あんたなあ、朝起きて、窓のカ-テンあけて、ひょいとあんたのベッドを見たら、枕の上に灰色と緑のうろこだらけの顔があって、身体や髪はたしかにあんただったら、そりゃあ誰でも───まあいい、もういい、その話は」
「すみません。あのお面、どうしました?」
「そこからは見えないだろうけどね、あんたのベッドの枕元の壁にちゃんとかけてあるよ。あんたが熱でうなされてた間、ひょっとしたら魔除けになるかもしれんって思って。校医の浜本先生は、風邪と疲れが重なったせいだろうって言ってたから、あんまり心配はしなかったけどさ。もうちょっと熱が続くようなら、今日あたり、あんたの家に電話しとこうかなとも思ってたけど、大丈夫だよね?」
「大丈夫です。電話しなくてよかったですよ。母は聞いたら、きっと飛んできます。入学式の時は、仕事が忙しくて来れなくて、寮の中とか見てないから、何か口実作ってここに来て、建物の中とか見たくて、しかたないんですよ」
「見せてあげりゃいいのに。お母さん、仕事、何してたんだっけ?」
「彫金とか、革細工とかして、友だちのお店に卸してるんですけど、注文が殺到すると何日も徹夜状態になったりするから───。ここの学校、古くてきれいで、あっちこっちの建物の飾りとかがデザインの参考になりそうだって、母はねらってるんですよ」みどりは手をあげ、額のタオルをあて直した。
「ここの卒業じゃないんだよね?」
「母ですか?ちがいます。どっか田舎の共学です。だから、女子校っていうのに、すごく興味があるみたい。峯さんのお母さんは、ここの卒業生なんですよね?」
「うん、もうずっと前に死んだけどね」
「そうおっしゃってましたね。『アン』の話がお好きだったんでしょう?あ───!」みどりが、何かを思い出したように、ぎゅっと目を閉じた。
「どうした?タオルかえようか?」
「ううん、まだいいです───ああ、あたしってバカだったなあ───忘れちゃって。放ったらかしてしまってて」みどりは細いため息をついた。「あの、あたし、何日、寝てたんですか?」
「まる四日───待てよ、五日か」
「───どうしよう?」途方にくれたように、口の中でみどりはつぶやいた。
「何だよ?何か、困ったことでもあんの?」
しばらく黙って、ひっそり考え込んでいてから、思い切ったように、みどりは言った。 「峯さん───頼まれて下さいますか?すごく、申し訳ないんだけど──」
「いいよ。何さ?」
「町に行って───ああ、だめだ、あたし、あの人の名前も知らないんだよねえ」みどりは、しぼり出すようにつぶやいた。「ええと、あの───あれ、どのへんになるんだろう?『アランフェス』の近くに、生け垣に囲まれた小さい空き地があって、そこに小さな家が───本当に小さな、けっこう古い家があって、おばあさんが一人で住んでると思うんです。そこに行って、ほしいんです」
「いいよ。それで?」
「ええと、どうすればいいのかなあ───」考えるのもつらそうに、みどりは息をはずませた。「あの、峯さん、あとでゆっくり話すけど───この前の部会であった、いろんな話───図書委員会のこととかですね、そのおばあさん、いろいろ知ってると思うんです。昔、図書委員会の人たちと親しかったらしいんですよね。アスラン、って、あたしのこと呼ぶんです、ときどき。当時の資料だって言って、ファイルも一冊くれたんだけど、入っていたのは、何か古いビラとかそんなんばっかりで、だから、大したことないのかなあとも思うんだけど、でも───何か、気になるんですよね。峯さん、もしもよかったら話をしてみてくれませんか?その、おばあさんと───何を、どんな風に話したらいいのか、あたし今、ちょっと思いつかないけど」
「ふうん───まあ、いいよ。とにかく行って見てこよう」竜子はうなずいて、立ち上がった。「案外、貴重な情報源かもしれないね。『アランフェス』の近くなんだね?」
「だと思うけど、よくわからない──」
しゃべり疲れたのか、安心したのか、みどりはまた、うつらうつらと目を閉じかけている。竜子は、その肩に軽く手をおいた。
「優子か朱実に、ここに来て、いてもらうよう言っておくから。いいね?」
みどりが目をつぶったままうなずくのを見て、竜子はそっと、その額からタオルをとり上げ、もう一度、水で冷しに行った。
開け放しの窓の外から、カモメの鋭い鳴き声が聞こえる。

「アンの娘リラ」の原作を読めばすぐにわかることですが、作者のモンゴメリは決して反戦小説を書こうとしたのではありません。その逆です。結局はウォルタ-も、敵国ドイツの無差別攻撃で、女子どもを乗せた潜水艦まで撃沈されたことに怒りを感じて、志願して兵士になり、誰よりも勇敢に戦って死にます。彼の最初のためらいは、むしろ、その決意と最期を強調するために書かれています。アンの村に住んでいる反戦主義者の男性は、丸顔に髭を生やしていることから「月に頬髭」とあだ名され、アンの一家をはじめとする登場人物のすべてにとって、軽蔑と嫌悪の対象でしかありません。
でも、今回私が見た、この劇は、実は大変複雑な構成になっていて、「アンの娘リラ」と同時に、別の二つの劇が演じられるのです。一つはレマルクの「西部戦線異状なし」、もう一つはマルタン・デュ・ガ-ルの「チボ-家の人々」です。(ざわめき)
びっくりされますでしょう?私も、びっくりしました(笑)。よく、こんなことを考えつくものだと思います。
劇は野外で演じられていました。学校の敷地の中を流れる、きれいな小川のほとりの砂地に、椅子を並べてお客が座り、橋の上が舞台になっているのです。舞台装置はそんなになくて、簡単な椅子や机で、いろんなものが象徴されます。
ところが、劇が進んで、ウォルタ-が出征を決意するあたりから、小川の一方の岸の土手で、もう一つの劇が始まるのです。「西部戦線異状なし」です。ウォルタ-と同じ学生で、兵士となって戦っている若者パウル・ボイメルと、その小隊の仲間たち───同じ学徒兵、農民兵士、古参兵───まるで、戦場に行ったウォルタ-の暮らしそのもののようですが、違うのは彼らがドイツの若者であることです。ご存じでしょうか、「西部戦線異状なし」も第一次世界大戦を背景としており、パウルたちはウォルタ-の敵として戦っていたことになるということを。(ざわめき)
激しい戦いの中で、パウルの仲間たちは一人一人死んで行きます。その間、橋の上ではアンの一家や村の人々が、戦争の状況に必死で耳を傾け、ドイツ軍の敗北のニュ-スに歓声をあげています。どちらの劇も、原作の小説のせりふをまったく変えずに使っていることを後で読んで気がつきましたが、その二つを並べて聞くと、それは何と悲しく、恐ろしい、戦争の姿を浮かび上がらせることでしょう。パウルが一度帰省した時、年とった病気のお母さんが、一晩中パウルのベッドの足元に黙って座っている場面や、アンの家族がウォルタ-の死を乗り越えて、戦い抜く決意を固める場面が交互に現れる時、私も、見ている他の観客も───主として、若い少女たちでしたが───皆、もうどうしていいのかわからないほど、やりきれない気持ちになりました。
パウルを演じた少女がまた、大柄で、すっきりきれいな顔だちの、本当に若い兵士に見えるような清々しい感じの子で、三島由紀夫が見たら感動して、即「楯の会」にスカウトしたのじゃないかと思えるような(笑)人でしたが、ウォルタ-役の子と全然似ていないのに、声やしゃべり方が、多分そういう風に演技していたのでしょうが、時々ウォルタ-とそっくりになるのです。「お母さん」と呼びかける声などが、もう区別がつかないほどで、それがもう、本当に胸をつかれました。

「───あん畜生!」さつきが、京子の後ろ姿を見送って、思わず小声でののしった。 「やめなさいよ、さつき」美沙が首を振る。「京子がああなったらもう、とめられないって知ってるくせに」
「くそっ、何だかもう、超いやな予感!」さつきは髪をかきむしった。「この間から何かっつうと、あんたも皆も定番がどうとかこうとか言うけどな、それで言うなら、だいたい、映画でも小説でも、中盤あたりでヒ-ロ-は必ず一回、うぬぼれたり疲れたり、ぶっきれたりして、暴走してバカなことやらかすって決まってんだよ。でもって、めっちゃくちゃ失敗して、プライドも何もずたずたぼろぼろになって、すべてを失って挫折して、そこで反省して初心に戻って、地獄の底からはい上がりの、一からやり直しの、そして何とか、最後にゃ勝利を収めるってことにだいたいなるんだろ?いいよいいよいいよ、ヒ-ロ-はそれでもいいけどなっ、えてして、そういう大失敗の大ピンチの時には、ヒ-ロ-の大切な友人とか副官とかが犠牲になって死んじゃったりするんだぞ!そいで、作品の後半では、そいつは変にエコ-のかかった声だけとかさ、ぼうっと光る霧に包まれたり、枠入りとかソフトフォ-カスの画像になってさ、画面の右上とか左端とかのへんに幻みたいに登場してさ、ヒ-ロ-を励ましたり、アドバイスをくれたりなんかして、『私の犠牲を無駄にするな』とか言っちゃったりすんだろ~っ!それで最後には、『君がいなければ、この勝利はなかったろう』とか言われて、ヒ-ロ-から、お墓の上に花束とか手向けられちゃうんだいっ!やだやだやだ、そんな、もうけ役には絶対になりたくないっ!まだしもこれが映画とか劇だったら、出番が早くなくなる分、さっさと帰って、釣りだかゴルフだかして遊べるのかもしれんけど、現実はそんな、おいしい話じゃないからなっ!死ぬのも、レイプされるのも、半身不随になるのも、気が狂うのも、再起不能になるのも、行方不明になるのも、退学になるのも、ごめんだわっ!ちょっとっ、美沙っ!黙ってないで、何とか言ったらどうなのよ!?」
「口もはさめないぐらい、あんたがしゃべりまくってんでしょ」美沙は、ちぎった草のはしをかみながら、おっとりした目で、さつきを見上げた。「あたしは、京子とつきあって心中する気なんか、さらっさら、ないからね」
「そ-だろ-な-!!」さつきは草の上にひっくり返った。「あんたって人は、『ハムレット』ならホレ-ショ-、『平家物語』なら景清、『義経記』なら常陸坊海尊、『ユ-ジュアル・サスペクツ』ならヴァ-バル・キント、『はつ恋』なら主人公、何があっても絶対最後に一人だけ生き残って、事件の全貌、人に語って聞かせるタイプなんだからっ!それがまた、けっこう、嘘八百だったりしてっ!」
ようやくつかまえたバッタを得意そうに横向きに口にくわえて、ジャコポがのそのそ、二人の方へと近づいて来た。

言い忘れていましたが、この劇には、不思議なナレ-タ-がいます。彼女は、灰色の衣装で小舟に乗って川を下って来ます。顔も身体もほとんど見えないのですが、それでも何となく、中年か初老の女性らしいことがわかります。彼女は昔、「アンの娘リラ」と「西部戦線異状なし」を同時に読んだこと、同じように愛した二人の若者、ウォルタ-とパウルが、敵味方として戦ったことの苦しみが、今でも忘れられないと低い声で語ります。そして、同じ頃読んだ「チボ-家の人々」のことを話します。フランスの名門の旧家に生まれながら、父に反抗して家を出て、スイスで国際的な社会主義の運動に参加して行った主人公のジャック。彼が、仲間の革命家たちと交わす討論は、難しくて、読んでいてもほとんどわからなかったけれど、その目まぐるしく飛び交う言葉の中で、たったひとつを今でも忘れられないと───。
ナレ-タ-が小舟をとめて見上げているのは、「西部戦線異状なし」が上演されているのと反対側の土手の上です。そこには、きれいな彫刻がついた高い鉄の柵の塀がありまして、その柵の向こうやこちらで、ジャックをはじめとした革命家たちが、激しい討論を重ねています。そうです、もちろん、これも時代は、第一次世界大戦の頃なのです。
ジャックを演じた、小柄なかわいい女の子は、気性が激しい優秀な青年の、父に対する屈折した心情を見事に演じていましたし、思い出の場面に登場する父や兄も、それぞれ素敵で、こう言っていますと私はまるでミ-ハ-ですが(笑)、特に、ジャックが心酔している年上の孤独で物静かな革命家メネストレルを演じた少女の高貴な美しさと言ったら、あんな美少女が本当にいるのですねえ(笑)。それと、ドイツと戦っている国の政府の高官が一人登場するのですけど、この人の、いかにも政府の若手の切れ者らしい、ク-ルで歯切れのいい口調は、鋭い顔だちや細身の身体とマッチして、それはもう、ぞくぞくするほど素敵でした───あらまた(笑)。
ナレ-タ-が言った、忘れられないせりふとは、この高官が口にしたせりふです。彼はさりげなく言うのです。「ドイツの潜水艦がルシタニア号を撃沈したということで、世界の世論は怒りに燃え上がったけれど、あの時に死んだ女子どもの乗客の数なんて、我々が経済封鎖を行ったために、ドイツで飢えて死んだ子どもたちの数に比べれば、ほんとは、微々たるものなんだけどね」と。なぜ、これが忘れられないせりふかというと、あのウォルタ-が怒って戦争に行くことを決意したきっかけが、このルシタニア号撃沈のニュ-スだったからなのです。(ざわめき)
政府の高官が、このせりふを口にした時、場面はスト-プモ-ションになり、ナレ-タ-が語りはじめます。ボ-トの中に肩を落とし、うずくまるように座ったままで。「私の心から愛したウォルタ-。あれほど、人の息子や夫を殺すことなど、自分には絶対にできないと言いつづけていたウォルタ-。その彼に、戦争に行き、人を殺す決意をさせた、ドイツ軍の残虐さを示す事件とは、結局、そんなものでしかなかった。もし、ドイツの残虐さが本物で、あれが正義の戦争なら、私はまだ救われたけれど。でも、あの、ジャックの友人の政府の役人が語ったことばは、そんなに簡単にわりきれる戦争などないこと、残虐なのは決してドイツだけではなかったことを、私に教えたのです。その時感じた、生々しい悲しみを今でも決して、忘れることはありません。悲しくて、あまりに悲しくて、私は涙が出ませんでした───」
暑い川辺で、私たち観客は汗を拭くのも忘れて聞き入りました。語り手の言葉ではありませんが、すすり泣きの声さえも消えて、重い沈黙だけがあたりを満たしていました。
いっそう静かな、時のかなたから聞こえて来るかのような口調で、ナレ-タ-は続けます。この後、ジャックが、両軍の兵士に戦争をやめさせようと、メネストレルの操縦する飛行機で、前線に反戦ビラをまこうとしますが、飛行機は撃墜され、二人は死に、そのビラがまかれることはなかったことを。
そして、最後に彼女は言います。「ジャックとパウルとウォルタ-と───三つの国の三人の若者の死を、身近な人の死よりも重くうけとめて、私は大人になりました。リラが流したように、多分、パウルの母が流したように、無心でひたむきな涙を、私は流すことができません。深い悲しみの底にいつも、ルシタニア号について語る、あの高官の冷たいなめらかな声を聞くからです。あの声が、私の耳にいつまでもひびきつづけるように、この劇にも終わりはありません。どうか、拍手はなさらないで下さい。拍手をして、ひとときの楽しみや感動として、この劇に区切りをつけてしまわないで下さい。感じられたことのすべてを、どうぞそのまま持って帰って、明日も考えてほしい。明後日も思い出していただきたい───」
そして、ナレ-タ-は立ち上がり、舟を漕いで橋の下へと消えていきます。ふと気がつくと、もう橋の上にも、両岸にも人っ子ひとりいません。舞台装置も消えていました。夏の激しい陽射しの中に草がそよいでいるだけで、本当にもう誰もいなかったのです。まるで、長い夢を見ていたかのようでした。
それにしても、観客は放り出されて残されたのだから、考えて見たら、ひどい劇です。(笑)でも、呆然と立ち上がって、帰りながら、私たちが劇の感想を話し合うこともせずに、ずっと黙ったままだったのは、怒っていたからではありません(笑)。ナレ-タ-の少女が願ったように、うけとめたものの大きさを、ひとりひとりがかみしめていたのだと思います。

草をふみしめて、京子が戻ってきた。さつきの顔をのぞきこむようにして、澄んだ、子どもっぽいほど無邪気な目で彼女は笑った。
「戻らない?」
さつきと美沙は立ち上がる。どこかもう、あきらめているような、やさしい声で美沙が聞く。
「いつ、下りる?」
「明日の朝」京子はあっさり、そう答えた。

残された時間も、わずかとなりました。なぜ、私が、この劇の話をしたか、あと少しだけ、ご説明いたします。
文学教材で、子どもたちの感情を豊かにし、人の痛みがわかる感じやすい優しい心を育てることは、大切なことであり、すばらしいことだと思います。けれど、現代はまた、週刊誌、ワイドショ-などをはじめとしたマスコミの世界、宗教の世界、政治の世界、あらゆるところで、あやしげな論理がまかりとおっており、そのいいかげんさをごまかすために、ともすれば人の感情を刺激し、それにつけこむことがよく行われています。
論理的なものの考え方、情報の裏を見抜く力、批判精神、冷静な分析力───このようなものを磨いておかなければ、優しさや感じやすさは利用されて、ふみにじられます。言いかえれば、文学教材だけで感受性を養った子どもを世間に送り出すのは、ジャングルの中へ餌になる幼い動物を放り出すのと、何の変わりもありません。
論理性や分析力だけでもだめです。暖かい豊かな感受性だけでもだめです。その両方があってこそ、人は正しく生きられるのです。
かつて、ヒトラ-のナチズムが跋扈した頃、ドイツの良心的な人々の間で言われたというではありませんか。「誠実さと、聡明さと、ナチスとは一致しない」と。誠実でナチスである人はいたが、その人は聡明ではなかった。聡明でナチスである人はいたが、その人は誠実ではなかった。誠実で聡明な人はいたが、その人はナチスではなかった。(笑)この三つが、一人の人に同時に存在することはない───と。
この場合のナチスを、人間としてあってはならない生き方、考え方とするなら、そのようにならないためには、誠実で、かつ聡明でなければならない。心優しく勇気があるとともに、冷静でものごとを見抜く力を持たなくてはいけない。文学教材とともに、説明文をぜひ、皆さんの生徒たちにしっかり教えて下さい、という結論にどうやら結びつきますでしょうか。(笑、拍手)
私の話はこれで終わらせていただきます。長い時間、おつきあい下さいまして、本当にありがとうございました。(拍手)

ベッドの中で、みどりはうつらうつらしていた。
優子と朱実の声が、どこか遠くで聞こえている。
「───あたしも、あの絵はよく見るけれど、病的だとは感じないわ」朱実が言っている。「けっこう、明るい感じする時あるわ」
「あたしもそう。──でも、それは、それだけあたしが、もう不健康になってしまっているのかもしれないって、思う時もあるの」
「そんなに簡単に、毒されるもの?たかが、絵よ?」
朱実が笑っている。優子も、少しほっとしたように笑って、その声がとても幸福そうだったので、みどりも何だか安心して、目を閉じたまま微笑した。
二人の声が遠ざかる。しばらくして、また、誰かの足音がした。竜子の声がひそひそと何か言っているのが、とぎれとぎれに聞こえて来る。
「───家は見つかったんだよね───多分、まちがいないと思うよ。でも、誰もいなかった。玄関の戸が閉まっててさ───明日、また行って見るよ───ありがとう、悪かったね、せっかく、いいお天気なのにさ───」
「いいよ、そんなの、気にしなくても───」
「───今から、どうする?───お洗濯?だって、もうすぐ夕方だよ───」
お天気がいいから───と、みどりはぼんやり考えた。おばあさん、海に貝殻でも拾いに行ったのかな───白いパラソルくるくる回して、明るい色のワンピ-スなんか着て、籐のバスケットでも持って───だけど、もうすぐ夕方なんだ───おばあさん、突堤に座って、夕陽とか見るのかな───白いパラソルを、夕陽に染めて───

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