小説「散文家たち」第4章 ボ-ル箱

最後の授業が終わって、校舎の階段をぞろぞろと下りて行く少女たちの中に、京子と美 沙はいた。いきなり美沙が立ち止まったので、少女たちの流れがちょっと混乱する。階段 の手すりに身体を寄せて皆をよけながら、美沙はひそめた声で、あきれたように言った。  「また、呼び出されたですって?小石川さんから、塔のへやに?」
肩のカバンをかけ直して、京子は首をすくめた。「呼び出されたのは初めてよ。この前 は私が自分で行ったのだから」
「それにしたって、用事があるならあの人の方が演劇部室に来ればいいでしょ」いつも 穏やかな美沙の声に、かすかな怒りが混じっていた。「あたしもあなたも、さつきでさえ も、そうしていたわ。塔のへやまで、いちいち人を呼び出したりしたことなんかない。あ の人・・・小石川さんは、楽しんでいるのではなくて?あなたをへやによびつけるのを」
「・・・美沙」京子は目で周囲を示し、言葉に気をつけろと合図した。
ため息をついて、美沙は黙る。京子は通りすがりの下級生たちが頭を下げて行くのに、 軽く目礼して応えながら、美沙に言った。
「悪いけど、先に部室に行っていて。五月の連休にやる劇のことで相談したいって、さ つきが言ってた。やっぱり『ハムレット』は無理よね。片山しのぶさんに代わるハムレッ ト王子といっても、なかなか見つかりそうにはないし」
「それもだけれど、あの事故のことで、変な噂がたっているのよ」美沙はちょっと眉を ひそめた。
「どんな?」
「あとで話すわ」美沙はいつもの笑顔に戻って、京子の肩のカバンをはずし、自分の肩 にかけかえた。「持って行っといてあげる。早く戻っていらっしゃいね。一時間して来な かったら、さつきと二人で塔のへやに押しかけて、あなたを救い出すからな、ランスロッ ト」
「光栄のいたりにございます、ア-サ-王」
美沙の手の甲にキスする真似をして、京子は階段をかけおりて行った。

京子が塔のへやに入って行った時、小石川ナンシ-も授業から帰ったばかりのところら しかった。彼女が脱いだ制服の上着に、図体のでかい生徒会役員の二人・・・木村芳江と 桜木千里がうやうやしくブラシをかけている。沢本玲子は向こうのすみでコンピュ-タ- の画面に色とりどりの数字をちかちか動かしていた。
ナンシ-は京子の顔を見るなり、何か苦いものでも飲んだような、ひどくいやな顔をし た。
「座ってちょうだい」彼女はむっつり、自分の前の椅子を指さした。
その声にはそれなりにかなりの迫力があったし、ナンシ-がそう理不尽なことで腹を立 てる少女ではないことを知っていた京子は、黙って言われるままに腰をおろした。ナンシ -は指の節でしばらくこつこつテ-ブルの上をたたいていたが、やがて薄気味悪いほどの 静かな声で、こう聞いた。
「今日は何日だったっけ、朝倉さん?」
「四月二十五日よ。なぜ?」
「あなたたちが寮のトイレと風呂場とを掃除して下さることになってから、何日になる のだったかしらね?」
「約束の一週間目が、ちょうど昨日で終わったわ」京子も静かにそう答えた。「日付変 更線が、この学校の上を通過したというのでもない限りはね」
ナンシ-はうなずいた。「そう、昨日が最後の日だったわ。だから放課後、私は、ここ の、この二人に言いつけて、トイレと風呂場がどのくらいきれいになっているか、見に行 かせたのだけれど」
「知っているわ。私は美尾さつきたちとトイレを掃除していて、そこの桜木さんと会っ たから」
「そうらしいわね。それで、風呂場の方は?」
「あそこは、一年生の浅見司が指揮をとっていて・・・」
「そうらしいわね」ナンシ-は繰り返した。
それっきりナンシ-が何も言わずに指でこつこつテ-ブルをたたきつづけているので、 さすがの京子も次第に不安になってきた。先に口を開いたらこの際負けだとわかってはい たが、とうとう彼女は質問した。「風呂場で何か、あったわけ?」
「浅見さんから報告は、何にも受けていないのかしら?」
「一応、仕事がすんだと聞いて、後で私が自分で点検に行ったけれど、特に問題はなか ったわ」
「浅見さんが言ったのは、それだけだったの?・・・仕事はすんだ、と?」
「言葉は正確ではないけれど、そういう意味のことだったわ」
「そうなの!?」ナンシ-は力をこめて言った。「あなたは部員に、そういう教育をし ているわけなのね」
京子は椅子の背に身体を投げ出すようにくっつけて、まっすぐに座りなおし、正面から ナンシ-を見つめた。
「どういう意味で、おっしゃっているの?」氷のように冷たい口調で、彼女は聞いた。 「よろしかったら思わせぶりはおやめになって、何の話かはっきりわかるように説明して いただけないかしら?」
「そう?いいの?」ナンシ-もまっすぐ京子を見つめてきた。「ずいぶん自信がおあり のようね。それならば聞くけれど、この木村芳江が風呂場に行った時、風呂場には皆で三 十人もの演劇部員以外の女の子がいて、その皆がせっせとタイルや浴槽を磨いている、そ の真ん中で、浅見司は裸になって、いい気持ちそうに一人でシャワ-を浴びていた・・・ ということは、ご存じなの?木村芳江と目が合っても、びくともしないで薄ら笑いを浮か べたまま、シャワ-を浴びつづけていたということだけれど?」
京子の目がまん丸くなり、唇がかすかに開いたのを見て、ナンシ-は指で机をたたくの をやめた。「まあ、あなたは知らなかったわけだ」
「・・・まさか」京子がようやくつぶやいた。「いくら何でも」
「木村さん?」ナンシ-は半身そちらに向けながら呼んだ。
「はい、生徒会長!」
勢いよく答えた芳江の声に、思わず京子がそっちを見たのは、動転していたあまり、つ いこの間までそう呼ばれていた自分のことと勘違いしたのだ。ナンシ-が気づいて薄笑い を浮かべ、京子は吐息をついて首を振った。
「私の言ったことはまちがいかしら?」ナンシ-が聞く。
「いえ、その通りです、生徒会長」芳江は太い腕を組み、重低音の声で答えた。「自分 が入って行った時、浅見さんは、いい気持ちそうにシャワ-を浴びていて、自分と目が合 っても知らん顔で、またくるっと振り向いて身体を洗いつづけました。自分はあきれてし まったので、掃除をしている女の子たちに、バカなことはやめるようにと一言注意を与え ておいて、そのまま風呂場を出てきました。これは絶対に本当のことです。嘘は一つもあ りません」
「朝倉さん」ナンシ-はゆっくり椅子にもたれかかった。「この木村さんという子は、 腕っぷしはなかなか強いけれど、想像力ときたら五才の子どもにも劣ると言っていいくら いなのよ。とても、こんな話を自分ででっちあげる才能なんかないわ。それは私が保証す るわよ」
京子が黙りこくっているので、ナンシ-は更に続けた。「人は見かけによらないものよ ね。それとも、あなたがあまり立派な聖人君子でいらっしゃるから、自然と皆、あなたの 前ではとりつくろって裏表のある人間になるのかしら?この前の事故の時も、皆は確かあ なたに隠して規則破りをしようとしたのだったということだし」
「浅見司に話を聞くわ」京子はほとんど無意識のように額に片手をやりながら、見るか らにぼんやり、そう答えた。「その結果はすぐ、ここに報告に来ます。それで、しかるべ き処分があれば・・・」
「まだ、そんな話はいいわよ」ナンシ-の声には、余裕からかも知れないが、かすかな 同情の響きがあった。「とにかく、聞いてたしかめて見てちょうだい。私たちの言ってい ることが本当か嘘か、どうかを。何もかも、それからのことよ」

その、ちょうど同じ頃・・・。
日は次第に長くなってきているから、建物の外はかなり明るい。しかし、窓のない図書 館の地下室である演劇部室は、廊下へ通ずるドアをいっぱいに開け放していても薄暗く、 ましてや、その奥のへやは、もう完全に真っ暗だった。天井の電灯はまだ修理できておら ず、表のへやから長いコ-ドでひっぱってきたライトが一つ、がらくたの山の上で、どぎ ついギラギラした光を放っている。ボ-ル箱や本や食器や布きれや、その他ありとあらゆ るものがうずたかく山をなしている、広さだけはかなり広いへやの真ん中に座りこんで、 せっせとあたりのがらくたを片づけているのは、南条美沙と美尾さつきだ。美沙はちぎれ た紙の束や、ばらばらになった本を重ねては紐で縛り、さつきは黒い大きなビニ-ル袋の 中に、捨てていい(と彼女が判断した)ものを次々放り込んでいる。
「・・・さっきから思ってることがあるんだけど、いい?」さつきが陰気な声で聞く。
「いいわよ」手を休めないまま美沙が答える。「何なの?」
「あたしたち、片づけるつもりで、前よりどんどん散らかしてない?」
美沙はがっくり、床に手をついた。「あなたもやっぱり、そう思う?」
「ボ-ル箱を三つもいっぺんに開けてみたのが失敗だったかな」さつきはあたりを見回 した。「まずはこの床の上のがらくたから、どうかしてしまうべきだった」
「そうだけど、こういう片づけって一番いやなのよね」美沙はおぼろな光の中で、でこ ぼこに盛り上がっている床のごみの山を見つめた。「紙なら紙だけ、布なら布だけとかい うのなら、わりと片づけやすいのよ。これって、本が重なっていたかと思うと、腐りかけ た雑巾があって、その下には針金の束、それから割れたお皿があって、ほこりまみれの毛 糸の束があって、ガラスのかけらがあって・・・何ていうのかしら、次々、気持ちを切り 替えて、タイプの違った片づけ方しなくちゃならないから、すごく神経が参ってしまう」  「一番いい方法は、かのヘラクレスがしたようにだね」さつきは、あたりを見回しなが ら、軍手をはめた手の甲で荒々しく長い髪をかきあげた。「壁に穴あけて海の水流し込ん で、ここにあるもの洗いざらい一気に全部押し流してしまうことさ!」
二人は黙ってしばらくの間、また手を動かしていた。
「京子、遅いね」さつきが、何かが気になるようにへやの周囲の闇を見回した。自分で はまったく気づいていないのだろうが、彼女にしては珍しく、ちょっと心細そうな口調に も、それは聞こえた。へやの四方のすみまでには光もほとんど届いていないため、ぼうっ としていると、果てしなく広がる暗黒の荒野にいるような錯覚さえふっと起こってきそう になるのだ。「他の連中も何してるんだろ」
「食事をすませたら、皆来るわよ。京子は、行ってからまだ三十分もたってないから」 腕時計をライトの方に向けて確認しながら美沙が言う。
突然さつきが立ち上がり、新しいボ-ル箱に手をかけたので、美沙は驚いた。
「どうするの?」
「何だかもう、いやになった。どうせだから、新しい箱をもう一つ開けて見てやろう」
「よしましょうよ!」美沙はとめた。「さっきの三つの箱の中になにが入ってたか忘れ たの?古い電灯の笠に、風化しかけたインスタントラ-メンに、ガスコンロのホ-スに、 それから何だっけ、片づけようにも捨てようにも始末に困るものばっかりだったじゃない の?これ以上、そんなものが増えたら・・・」
だがさつきはかまわず、新しい・・・といっても、それ自体はもう古びてぼろぼろにな ったボ-ル箱の、からからに乾いたガムテ-プに爪をひっかけ、一気にはぎとって、ふた を開けた。
美沙は黙ってため息をついて首を振り、自分の仕事に没頭する。
「美沙・・・」
しばらくして、低い声でさつきが呼んだので、美沙はようやく、目を上げた。
「ん?なあに?」
「ちょっと・・・これ見て・・・」
さつきの声はあいかわらず、ささやくように低い。「何なのよ?」と言いながら腰を上 げた美沙は、さつきがふたを開いたまま、その前に立ち尽くしているボ-ル箱の中を覗き 込んだ。
これまでの箱と違って、その箱の中味は白い布でくるまれている。それをさつきは開い ていたので、布に包まれたものの一部分があらわに見えていた。
「何よ、これ・・・?」美沙も思わず息を呑む。
「ライトをこっちに持って来て!」さつきはようやく我に返ったようにてきぱきと、軍 手をはずしてポケットに突っ込み、箱の中に手を入れて、中のものを取り出しはじめた。  美沙が黙って、ライトを向ける。
光の中にうかびあがったのは、銀と淡い水色に輝く豪華な騎士の衣装だった。ついで、 濃い紫色と紅色のドレスが、きらびやかにぬいつけられた宝玉をまぶしくきらめかせなが ら現れる。純白の中に薄茶色の斑点が飛ぶ毛皮をずらりとふちに付けた真紅のマントが引 き出された。白と金色のレ-スを幾重にも重ねたヴェ-ル、虹色の光を放つ羽根扇、色と りどりのマスクに手袋・・・。

京子が地下室への階段を下りて、部室のドアを開けたとき、へやの中にはそこそこ人が いたのだが、それでも奇妙なはりつめた沈黙があたりを満たしていた。
そのわけはもちろん、すぐにわかった。テ-ブルがすみに押しやられて広くなった部室 の真ん中に、二十個近いボ-ル箱が置かれて、その回りに色も形もとりどりの衣装をまと った少女たちが立っていたのだ。
「やあ、朝倉部長!」金糸銀糸のぬいとりのある黒いマントを肩にかけ、大きなつばび ろの帽子をかぶった峯竜子が、両手にいっぱい衣装を抱えて京子のそばにやってきて、真 っ白いレ-スのあちこちに金色の細工がきらきら光る長いヴェ-ルを京子の頭からふわり とかぶせ、その上に丸い輪のようなあっさりしたかたちの美しい金色の冠をはめた。
「しばらくそうして立ってて下さい。あたしたち、何も別にここでコスプレやってるわ けじゃないんで」竜子はからから笑って、弁解した。「何しろ、置き場所がないんです。 椅子にひっかけとこうにも、ここの椅子、皆ぼろぼろなんで、汚れるか破れるかしそうだ しさ」
「結局、互いの身体にひっかけとくのが一番安全そうなもんですから」濃赤色のマント に同じ色の柔らかい小さい帽子をかぶった村上セイが言う。
レ-スをふんだんに使った、薄緑色の雲のような長いガウンをまとった日村通子が微笑 を浮かべてセイに近づき、その肩に手を回すようにして、重く長い金の耳飾りをセイの耳 につけた。
大西和子と緑川優子は、赤毛と金髪のかつらをかぶって、へやのすみで、銀色にきらめ く様々な形の剣を二十本あまり、がちゃがちゃ並べて点検している。
京子は司を目で探したが、いなかった。彼女がそうやってあたりを見回しているのに気 づいた日村通子は、いつものいかにもお嬢様らしいおっとりした口調で、「この衣装、ど うしたのかとお思いなのでしょ?」と微笑みかけてきた。「美尾さんと南条さんとが、奥 のへやの片づけをしていらしったら、ボ-ル箱の中から出てきたらしいんですの」
「朝倉さん!」人と衣装をかきわけるようにして、さつきが京子のそばに来た。他の者 なら絶対に似合わないだろう、どぎつい黄色の帽子をかぶり、さくらんぼ色のベストに紫 色のシャツという恐ろしい恰好なのに、彼女だと、その流れるように動く長い手足や、ふ さふさ波うつ豊かな髪や、ぱっと鮮やかな目鼻だちをいやが上にもひきたてているだけな のが恐ろしい。
「五月の公演の予算のことなんか、もう心配は無用だよ」彼女は片方の手で京子の腕を とり、ボ-ル箱からあふれ出している衣装の波の方を、大きく伸ばしたもう一方の手で示 した。「西洋中世の騎士物語を題材にした脚本を美沙に書いてもらったら、それでOK、 ここには何でもそろってる!すごいよ、もう!衣装はごらんの通りだし、山羊飼いの吹く 角笛から、百姓の使う大鎌とか、拷問用の鞭や足かせまで、何から何までよくぞまあって 感じだわ!」
「あたしらが贅沢してたって言うけど、昔の演劇部に比べりゃつつましいもんだよ、ま ったく」峯竜子がうなる。「いったいまあ、いくら予算を貰ってたんだか。こんな道具や ら衣装やら、皆使った後、ここに放り込んでいたってことでしょうからね」
「美沙!美沙!」さつきは美沙を手招きし、柔らかく艶やかな灰色の長いガウンに身を つつんだ美沙が近寄って来ると、その両肩に手をのせて、頼み込むように顔をのぞいた。 「すべてはあんたにかかってる。ここにある、この衣装と道具類がすべて利用できるよう な、しかも面白くって笑えて泣けて、この学校の生徒全員がカンパをがばがばしたくなる ような、そういう脚本を書いてよ。それも、あと二日で!」
「またもう、そんな無茶を言って」美沙はあたりを見回した。「これを全部使えですっ て?王冠がいくつもあるから、王が出てきて女王か王女か王子だかも出なきゃいけないっ てことなのね?拷問部屋があって、百姓も出てきて、さっき見てたら組み立て式の火刑台 まであったわよ。しかもあれだけ剣があるから当然戦いの場面も作らなきゃならない。い ったい、どういう話になるわけ?それを二日で書けですって?」
「美沙、あなたならできるわよ!一年生の時からずっと、とても高校演劇の舞台ではや れそうにない作品の数々を、構成とアイディアでちゃんと上演可能な脚本にして、かたっ ぱしから成功させてきたあなたじゃないの!?『キャメロット』しかり、『ジ-ザス・ク ライスト・ス-パ-スタ-』しかり、二年の春の新歓じゃ、『七人の侍』までやっちゃっ たんだよ、忘れたの!?」
「あなたを野武士の大将にしたばっかりに大失敗した、あの劇ね」美沙はにべもなく言 った。「誰が忘れるものですか」
「あなたの脚本はよくできてたって、もっぱらの評判だったじゃない?」さつきが慰め 顔になる。「機会があったら再演したっていいって、ときどき京子と話してるんだよ」  「あたりまえだわ。あの劇の失敗が自分の脚本のせいだと思うほど、いくら何でもあた しはつつましくなれないことよ。あの失敗は、あなたのせいよ。何しろ劇が終わった時、 客席じゃ皆、悪役の野武士の棟梁の死を悲しんで涙を流してたんだから!もしも再演する んなら、あなたが侍、それも一番派手で騒々しい菊千代あたりをやるんでなければ、あた しはOKしませんからね」
「とにかく、あなたならやれる。書いてよ」さつきは頼んだ。「そして配役急いで決め て、稽古に入って・・・連休の上演と言ってたけれど、実際それはちょっと無理だね。連 休明けの上演ということにして・・・」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さいよ、そんな!」村上セイが声をあげた。「もう上 演予定の寮のホ-ルをちゃんとおさえて、手続きもすましているんですよ!」
「キャンセルするさ。いや、待てよ、連休の間にそこで練習すりゃ、ちょうどいい」竜 子が言った。
「でも、連休明けにどこか上演する場が押さえられるかどうか・・・演劇部の方だって 会議の予定がいろいろあります。創立記念日や学園祭やクリスマス、来年の新歓に向けて の打ち合わせもしなきゃならないし・・・」
「おいおい、創立記念日はともかく、学園祭の新歓のって、そんなのまだ半年も一年も 先だろ?」竜子があきれた。「今からそんなもののための打ち合わせの予定なんてあんた ・・・」
「だって、演劇部は皆さん忙しいじゃないですか。皆が集まるまとまった会議や練習時 間を確保するのって、ほんと、大変なんですよ!」セイは必死に説明した。「この先二か 月の予定をやっと立ておわったばかりというのに、それを皆またチャラにするなんて、あ あもう、熱が出て来そう」
「悪いけど泣いてよ、セイ。演劇部員は皆、いろんな役員をクビになってるんだから、 前よか予定はたてやすいでしょ?」さつきが頼んだ。「連休明けの上演だって、相当無理 な予定なんだよ。ましてや連休中の上演なんて、とても無理だってこと、あんたもわかっ ているくせに。そして、この上演が成功しなかったら、演劇部には学園祭も創立記念日も クリスマスも来年も未来もないって。その前に解散、廃部になるのはもう、目に見えてい るんだから」
セイは口の中で何かをつぶやき、髪をかきむしってふけを落としながら、マントをひる がえしてコンピュ-タ-の方へと去って行った。
「では練習は、この奥のへやですることになりますの?」日村通子が、まるで本当の姫 君のようにヴェ-ルを細く長い指で払いながら、おっとりと尋ねる。「それでしたら、片 づけないといけませんわね。またしても、お掃除の日々ということに・・」
「ボ-ル箱も、あといくつか開けて見たいところだけど」竜子が腕を組む。「さて、そ んなことしている暇があるかどうか」
「あら、司!」さつきが言った。「お帰りなさい!」

思わずそちらを振り向いた京子の目に、ショルダ-バッグを背中にかつぎ、緑の文字が 斜めに入った紺色の野球帽を目深にかぶって、足どりも軽くかけこんで来た浅見司が、部 室の中の光景にびっくり仰天して立ち止まり、目を見張ったのが見えた。
「え~、いったい何ですかあ、これ!?」
「宝の山を掘り当てた、というところかしらね」日村通子が大きな重い金の鎖の首飾り を何本もまとめてじゃらじゃら、司の首に投げかけながら、微笑んだ。
「・・・あ、そう言えば」司は思い出したようにポケットを探り、ぶあつい封筒を取り 出して、コンピュ-タ-の前で世にも暗い顔をしている、村上セイのところへ持って行っ た。「村上さん、これ、那須野さんと上月さんから渡してくれって頼まれました。二人の ファンの人から、演劇部へのカンパだそうです」
「あ、そう・・・」セイは上の空でそれをうけとり、ポケットに入れながら、まだコン ピュ-タ-の画面のリストを見つめつづけていた。「う-ん、そうなんだよなあ、土曜の 午後っていうのがもう、基本的にだめなんだもんなあ・・・」
首をかしげてその後ろから画面を見つめている司の肩を、大西和子がたたいて、何か話 しかけている。振り向いて答える司の笑顔をながめながら、ため息をもらした京子にさつ きがかたわらから声をかけた。
「司がどうかしたの、京子?」
「ナンシ-に何か言われたの?」美沙もそばから口をはさんだ。「それと何か、関係が あるの?」
三人はこの時ちょうど、へやのすみの本箱と流しの間に立っていて、ボ-ル箱の中をひ っかきまわしている他の部員たちとは少し離れた位置にいた。二人の顔を見てから、左右 にちらと目を走らせて周囲に誰もいないことを確認すると、京子は沈んだ早口で、さっき 塔のへやで聞かされた話を告げた。
美沙の方は、京子に同情するように、また、信じられないというように、小さく何度か 頭を振って司をちらちら見ていたが、さつきの方は話の途中から、羽根飾りのついた帽子 を顔の前にひき下ろし、くっくっ肩を震わせて笑い出した。
「その話がもしほんとなら」彼女はうれしそうに言った。「あの子案外、見どころある わね」
「冗談言ってる場合じゃないのよ」美沙がにらんだ。
「だって!トム・ソ-ヤ-のペンキ塗りコンプレックスというやつだろ、それってさ」
さつきはけろりとして言った。「あたしだってトイレ掃除してる時、下級生何人かから、 面白そうだからいっしょにやらせて下さいって頼まれたもの。こっちがうれしそうにやっ てると、見てる方も同じことやってみたくなるんだよ。特に司ときたらもう、洗剤十本、 たわし二十個ぐらいをあれこれ使い分けながら、絶対落ちないしつこい汚れを次々消して 行くんだもの。あれは見てると絶対にやってみたくなるんだって」
「でもねえ、あれって問題よ」美沙がちょっとこだわった。「その内、司に話そうと思 っていたんだけど、何でもかんでもきれいにさえなればいいってもんでもないわ。時間が なくて充分チェックしてないけれど、あの子が使っていた洗剤の中には相当強力で、環境 破壊をしかねないものもいくつか混じっていたわ。そういうものは使わないようにするの が、本当のお掃除上手というものだって、今度司に言おうと思うの」
「たしかに、さつきの言う通り、私も下級生の何人もから、風呂場の掃除の手伝いをさ せて下さいって頼まれたわ」京子はつぶやいた。「そして、司がいいというならかまわな いって答えていたのだけれど・・・それがそんなに増えていたとは」
「それはまあいいのよ」美沙が言った。「問題は、司がそうして皆を働かせておいて、 その真ん中で自分はシャワ-を浴びてたってことなんでしょ?それも、木村さんを見ても 知らん顔して」
「私にはまだどうしても信じられない」京子が言った。「あの子が、そんなことするな んて」
「何もそうショックをうけなくても」と、さつき。「あたしだって、そのくらいのこと やりかねないわよ」
「それって何か、フォロ-になってる?」美沙が言い返した。「あなたがそんなことし たからって、京子でも、他の誰でもショックなんてうけはしないわよ」
「朝倉さん!美尾さん!」はずんだ明るい司の声と、厚ぼったくてかびくさい、どっし りとした金色の布が同時に、頭の上から降ってきて、三人は飛び上がった。司が他の少女 たちと机の上に立って、夜明けの草原を描いたらしい大きな背景の幕を垂らして見ていた のだ。「これ、この太陽のはしのところが少しほつれているんです。直してもいいですよ ね?」
「いいさ、もちろん」さつきは布をかきのけながら笑って、司を手招きした。「司、ち ょっとこっちにおいで」
「何ですか?」司はうれしそうに机から飛び下り、三人の前にかけよって来た。誰が用 事があるのかなと確かめるように、三人の顔を次々に彼女は見たが、いつもの生き生きと 元気で明るいその顔にはどうみても、やましさなんぞはかけらも見えない。
さつきはちらと京子を見たが、京子が沈んだ表情で目を伏せたままなのを見て、そばの 流しによりかかりながら、さりげなく聞いた。「風呂場掃除の最後の日にさ・・・演劇部 以外の人たちって、いったいどれぐらい手伝ってくれてた?」
三人の様子から・・・京子は目を伏せ、美沙は暖かい中にもどこか傷ついた動物を見る ような痛ましげな目をしているし、さつきはいやに愛想がいいので・・・何かまずい雰囲 気を感じたらしく、司はちょっとしょんぼりした。「十五人か・・・二十人・・二十五人 かな・・・延べだと、もっと」
さつきが眉を上げ、天井を見上げたのを見て、司は弁解した。「それでもずいぶん断っ たんです。でも皆があんまり、やらせてくれってきかないから・・・仕事をしてる時間と 断ってる時間とどっちが多いかって感じになってきて、時間がもったいなくなったもんだ から、つい・・・やりたい人は勝手にどうぞ、って・・・」
「で、あなた、その真ん中でシャワ-を浴びていたの?」穏やかに美沙が尋ねた。「生 徒会役員の木村さんが点検に来た時、あいさつもしなかったって?」
「え~っ、それ、いったい何のことなんですか?」司はびっくりするというより、むし ろきょとんとしていた。「シャワ-なんか、あたし浴びてません。木村さんがいらしたっ て話は後で聞いたけど、その時あたし、お風呂場にはいなかったんです。演劇部員の一年 生皆で、排水口の掃除するのに外へ出てたから。お風呂場のタイル磨きはもうあらかたす んでたから、そこはもう部員以外の人にまかせて。だけど、木村さんが見えた時にあたし がいなかったのって、やっぱりまずかったかなあ」
「そうじゃないのよ、浅見さん」京子が初めて目を上げ、司を見た。「木村さんが言っ ているのは、あなたが皆の中でただ一人、シャワ-を浴びていて、自分を見てもあいさつ もしなかったっていうことなの。それは、本当じゃないの?木村さんは、絶対にまちがい ないって言ったのよ?」
言われていることの内容よりも、京子の自分に向けている目の、期待とも不安ともつか ない懸命な光に圧倒されたように、司はしばらく黙っていた。
「それって、みどりじゃないんですか?」彼女はようやく、そう言った。
「みどり?田所みどりさん?」
「だって、あの時シャワ-を浴びたっていうと、あの子だけだから・・」思い出そうと するように、司はちょっと目を閉じた。「そうです。やっぱりそうですよ。あの子・・・ みどりはすごく熱心に、人がやらないところまで排水口の中に入って行ってごみさらいす るもんだから、手足も服もめちゃくちゃ汚れて、泥がついてすごく臭いし、皆で着替えを とって来るから、服は洗濯機に放り込んであんたはシャワ-を浴びろって言って、お風呂 場に行かせたんです。その後、みどりはきれいになって着替えてたから多分、シャワ-を 浴びたはずです」
「でも、それは、田所みどりさんなんでしょう?あなたじゃないんでしょう?木村さん は、確かにあなたを見たって言っていて・・・」
司はちょっとすまなそうに照れ笑いした。「あたしと彼女、前からときどき、お風呂場 だと皆に見まちがえられるんです。普段は全然そんなことないんだけど、みどりは髪をお 下げにしてるし、眼鏡かけてるし、あたしはショ-トカットだから。でも、お風呂でみど りが眼鏡をはずしてシャワ-キャップをかぶってしまうと、いろんな人から、あたしはみ どりと呼ばれるし、みどりは司と呼ばれるし・・・。何回お風呂に入ってるのよなんて、 言われることなんかもう、しょっちゅう・・。木村さん、多分みどりを見たんです。それ にみどりは眼鏡とっちゃうと、一メ-トル先の人の顔だってわからない。だから、あいさ つしなかったんですよ、きっと。木村さんが誰かということより、誰かが入ってきたこと にも気づかなかったはずです」
三人の上級生はしばらく黙って司を見ていた。京子の目には次第次第にゆっくりと、納 得と感謝と安堵の色がにじみはじめている。さつきは、ほっとしているというよりは、や や拍子抜けしたような表情だった。美沙はまた、いつにもまして考え深い、何かを思いめ ぐらしているかのような目の色だ。
「そのことで木村さん、怒ってるんですか?」司はちょっとおずおず聞いた。「もしか して、小石川さんも?」
京子はうなずき、司を安心させようとするかのように優しい笑いを浮かべて見せたが、 それはどこか彼女自身がおかしさをかみころせなくなって、自然にこぼれた笑みのようで もあった。
「だったらあたし、説明に行きます」司は言った。「でなきゃ、このままだと・・」  「いいえ、私が小石川さんに事情を話してくるわ。そう約束しているし。彼女、まだ塔 のへやかしら?」京子は腕時計をちらと見て、そのまま、へやを出て行こうとした。
「京子・・・」さつきが、のんびり声をかけた。「そのかっこうじゃまずかろう。小石 川さんはまたあんたに、おちょくられたと思って怒るよ」
京子は一瞬何のことかわからなかったようだったが、すぐ苦笑して白と金のヴェ-ルと 金の冠をはずし、さつきの手に押しつけると早足でへやを出て行った。
「やれやれもう、肩の荷を下ろすと、足の軽いことったら」見送ったさつきが、冷やか すようにひとり言を言って、美沙の方に振り返った。「それであんたはあんたで美沙、何 をいつまでも一人でにやにやしてるのさ?」
「まあ、いえ、別に、ただちょっとね」美沙はさつきを見返して、いたずらっぽい目に なった。「あなたがご要望なさっている、新しい脚本の構想が少し浮かんできただけよ」

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