小説「散文家たち」第41章 紙つぶて

ー観客をなめた「小公子」公演ー
読書量の多さでは、新聞部も元文芸部も足元にもおよばない演劇部のエリート女史の皆さんは、かのバーネット女史の名作「小公子」の筋なんて、皆、当然知っていると思ってるんだろう。でも、私たち、今どきの女の子は、セドリックと言われたって、車の名としか思ってない。
だから、くるくる巻毛に黒ビロード服の浅見司がスキップで登場したって、「わあ、かわいい」とは思っても、男の子なのか女の子なのかもわからない。浅見がまた、どんな役やらせても、動作も声も表情も皆同じで、演技のエの字もしない人なんだから、なおさらだ。母親役の日村通子はこれまた、変になまめかしいから、セドリックの浅見を抱いてキスすると、若いツバメをかわいがってるみたいだし、それを横から見ているハブシャム弁護士(村上セイ)は、陰気な寝とられ亭主のようであった。
そんな変な空想を、こっちが勝手に次から次へとしたくなるというのも、俳優(と呼ぶのも腹が立つ)が、皆、せりふをちゃんと覚えていなくて、しょっちゅう間違えてばかりなので、こんな単純な話なのに、人間関係がちっともわからなかったからだ。
せりふなど覚えてなくても、演技や魅力で観客を引きつけられるほど、お偉い役者のつもりかね。それとも、しょせんは素人芸だから楽しくやればいいってか?なめんじゃないよ、観客を。
セドリックの親友アメリカ青年ディックの斎藤眉美は太り過ぎで利発なイメージに欠けるし、気のいい乾物屋の親父ホッブスの大西和子は何やら狡猾そうで、リンゴの値段をごまかしそうなのがよくない。朝倉京子の老伯爵も品だけはいいが、人に恐れられる偏屈さやわがままさでは迫力不足だ。
ま、こんな劇を金出して見に行くぐらいなら、部屋で面白いミステリー小説でも読んでた方が、秋の夜長(ちょっと早いか)を過ごすには、ずっとましってことですな。

ー毒が消えると、魅力も失せる・「星の王子さま」公演ー
最初にはっきり言っておこう。
私は「星の王子さま」という童話が大嫌いなのだ。
あの、思わせぶりで哀れっぽい王子。変にもったいぶってものほしげなキツネ。思い出しても背中のあたりがゾクゾクしてくる。
きわめつけは、王子の故郷に咲いていた、あの高慢ちきと見せて媚売りまくりのバラの花。よくもここまで私の嫌いなキャラクターを作ってくれたと、ほとほと感心してしまうぐらい。
そもそも、ほんとに、この童話が好きな人って、どっかにいるのか?筆者の友人知人たちに、どこがいいのか問い詰めてみたら、結局みんな「だって、名作だしい」とか「誰もが、いいって言うからあ」とか白状したぞ。
今回、演劇部がこれを上演するというので、こわいもの見たさで行って見たら、いやいや、劇もさることながら、観客が安易に泣くこと泣くこと。こんな甘ったるい台詞の一つ一つに、ほんとにあんたたち泣けるのか?と、最後まで一人シラけっぱなし。いや、肩がこった。
劇の方には、それなりの工夫はあった。最大の変更は、私のきらいなあのバラの花を、少女ではなく少年として演じていたこと。逆にキツネは「私」でしゃべり、見ようによっては人生に疲れた中年女に見えないこともない。上月奈々子のバラの花は生意気さと、一種の透明感があり、村上セイのキツネも枯れた渋い味でなかなか。この方が、私には抵抗がない───と思いながら見ていて、奇妙なことに気がついた。原作を読む時に感じた迫力が、全然、伝わって来ないのだ。
いやだいやだと思っていた、あの原作のバラやキツネは、反感をそそるほどに迫って来る力があった。欠点がなくなるのは、それだけ、作品の持つ「毒」が消えることであり、その分だけまた、魅力も失せるということなのである。
口あたりだけはいいが、どっか気の抜けたソーダのようなこの劇を見ていると、何だか原作がなつかしくなってしまった。もう一回、読み直そうっと。

ー見ていて疲れる「小公女」ー
今回、この劇を見ていて、つくづく思った。
「小公女」のヒロインのセーラというのは、虫のよすぎるやつである。
寄宿舎でちやほやされまくっていた金持ちのお嬢さまが、親の破産で無一文になり、追い出されてもしかたがないのに、女校長のお情けで、屋根裏部屋に置いてもらって、下働きをすることになる。「それだけでもありがたいと思いなさい」という女校長の言葉に、私もまったく同感である。
なのにセーラは、青ざめた顔をきっとあげて、不当なしうちをうけている王女だと、自分のことを空想し、「誇りを失わないように生きよう」と決意するのだから、無茶苦茶である。
当然、まわりはついていけない。彼女は皆にいじめられる。当然だよな。もともと陰気な田所みどりが、これをいつにもまして暗く陰々滅々と演じているので、見てるとどんどん気が滅入ってくる。
こんな彼女を見捨てないのが、めそめそ卑屈な下働きのベッキー(斎藤眉美)と、でぶでおちこぼれのアーメンガード(立花朝子)。いやあ、あまりにぴったりすぎる配役で、なんか恐かった。この二人に、こんな本人そのものの役をやらせるなんて、いじめとしか思えんぞ。二人はけっこう嬉々としてやっているのがまた、無気味だ。
みどりも含めて、この三人が並んだところは、ほんとに、みじめ三人娘。あんまり全体が暗いので、セーラを助けるインド人役の美尾さつきが陽気に盛り上げてくれても、そこだけ浮いて、いっそう他の部分の暗さがめだつ。
昔「暗い日曜日」というシャンソンを聞いて自殺する人が続出したというが、あなたが気が滅入っているなら、この劇は見に行かない方がいい。死にたくなること、うけあいである。

ー役者は好演だが、あと味が悪い・「アンネの日記」を観てー
暗黒の中で、ドアを激しくノックする音。演劇部の公演「アンネの日記」のオープニングだ。一気に舞台が明るくなって、ナチの制服を着た兵士が階段をかけ上がる。アンネと家族が両手を上げて立ち尽くし、やがて連行されて行く。ちなみにここまでの台詞はすべて、兵士たちのどなりあうドイツ語だけ。いつもながら意表をつく南条美沙の脚本だ。
誰もがよく知っているユダヤ人少女アンネ・フランクの悲劇を、彼女の日記がおわってしまう、かくれ家にナチが踏み込む瞬間から、この劇は語り出す。そして舞台はそのままアンネたちが護送されていく列車の中から収容所へ───髪を剃られ、囚人服を着せられて、日ごとにやつれて行くアンネたちの「日記がおわってしまった、その後の日々」を描いて行くのだ。
それでは「アンネの日記」ではないのではないかと思われそうだが、実は、アンネと姉マルゴー、母のエディット、父のオットーらの回想シーンで、日記でおなじみの、かくれ家での日々が───同居人ファン・ダーン夫妻とのいさかい、その息子ペーターとアンネとの恋、協力者ミープ・ヒースのこと───などが再現されて行く。
アンネとマルゴー、あるいは父と母など、思い出を語る時、それがすべて微妙に食い違ってしまうのがおかしい。アンネの思い出の中ではナイーブな美少年のペーターが、父の思い出の中では、気のいい平凡な男の子だったり、ファン・ダーン夫妻や、同居人の歯医者デュッセルらのイメージも思い出す人によって、皆ちがう。いろいろな事件も、一人一人が異なって記憶している。父や母とも別れて、二人きりになったアンネとマルゴーが、どちらの記憶が正しいかで激しく争い、父や母にももう聞けないことを嘆いて、「もし、あたしたちのどちらかの日記だけが残ったら、そこに書いてあることだけで、皆は、あそこでの生活はこうだったのだ、と信じるのでしょうね」「そうなったら、とても恐い。私の日記は残らない方がいいとさえ思う」と話し合う場面は、印象深い。
だが、全体として、どことなく、のれないものを感じたし、観客も、どのように感動したらよいか、とまどっているように見えたのはなぜだろうか。
この劇は、もはや反戦劇ではない。辛口のホームドラマといった感じがする。アンネの思い出の中の、かくれ家での生活は、同居人との関係だけではなく、家族の間でも、不快なことがあまりにも多い。母や姉はもちろん、最も理解しあえる父とさえ、アンネは激しく対立する。家族や隣人の暖かさより、醜さ、いやらしさ、耐えがたさが、これでもかと描かれる。
実際、初めのころ、逮捕されて収容所に入ったアンネは、どこか晴れ晴れと、生き生きとしている。回想場面のうっとうしさ、やりきれなさと比べると、たとえ死の危険に日夜おびえる収容所でも、今の方がましと彼女が考えているのが、はっきりわかる。
それが、次第に飢えや寒さの中で、父や母とも引き離され、マルゴーも病んでいく時、アンネの思い出は微妙に変化しはじめる。同じ不愉快な思い出でも、それは不愉快なそのままで、なつかしい輝きを帯びはじめるのだ。
ロバート・シェクリイの「夢売ります」ではないが、特に幸福とも思えない平凡な日常こそが幸福の極致である───この劇が訴えたいのは、結局、そういうことなのか?
だが、それにしては、死の床にあるマルゴーが、最後にアンネにささやく台詞は何だろう?悲しむアンネに彼女は言う。「いいのよ、アンネ。私はここで、やっと自由になれた気がする。家族や周囲から解放されて、生まれて初めて幸せだった」───と。
アンネはこれを、「最後まで自分をなぐさめてくれようとしたマルゴーの、優等生らしい嘘」と片づけて、その数日後、自分も死ぬ。しかし、観客の心には、マルゴーのあの言葉は本心だったのでは?という疑いが残り続ける。それを、この劇が意図しているのかどうか、私にはついに、わからなかった。反戦文学の第一級の古典として、読み継がれてきた「アンネの日記」を、いわば、ここまで冒涜するなら、こんなあいまいなかたちでなくて、もっと明確に訴えることが、原作への礼儀なのではあるまいか。見おわったあとに残る、後味の悪さと不快感とは、そういうあたりに原因があろう。
アンネの緑川優子、マルゴーの田所みどり、ペーターの片山しのぶ、大西和子、斎藤眉美、エディットの立花朝子、皆、好演であるだけに、この、あと味の悪さは、何とも惜しい。

ー派手ならいいってもんではないぞ・「隊長ブーリバ」観劇記ー
冒頭、目のさめるような民族衣装で、舞台いっぱいにくりひろげられるコサックダンスで、まず観客の度肝を抜き、次に雄大なウクライナの草原の、荒涼とした美しさを見せ、賑やかなコサックたちの兵舎で歌われる歌の数々、血みどろの戦闘場面から、ポーランドの姫君とコサックの若者とのかなりきわどい濡れ場、拷問、死刑、火あぶりと、サービス満点、盛り沢山のノンストップで一気に見せる、まるで一大絵巻物かショー。客席も手拍子、合唱、喝采、悲鳴が鳴りやまず、何じゃこれはといいたくなるような騒々しさ。しかし、あとには、みごとに何も残らない。
衣装、背景、音楽が、俳優たちに勝っている。それが何とももったいない。剛毅な老コサック、タラス・ブーリバを演ずる峯竜子は、この役は彼女しかいないといっていいぐらいのはまり役だし、その二人の息子のうち、兄の、男らしくて一本気の好青年オスタップ役の片山しのぶも、弟で、影のあるロマンティストの夢想家アンドレイ役の那須野遼子もなかなか、それぞれ雰囲気が出ている。そのアンドレイと恋をして、父と兄を裏切らせるポーランドの姫上月奈々子も演技力ではおそらく、演劇部一だろう。
これほどのメンバーを集めているのだから、もっとじっくり演技をさせて、こちらにも目の保養をさせてほしいのに、皆、やたら動き回って飛び回るので、せっかくの演技を鑑賞するひまもないというのが正直な感想。
物事には、緩急のリズムというものがあって、こう、あわただしく、やすむひまなく、華麗に刺激的に押しまくられると、最後は何も感じなくなるということをお忘れか。裏切った弟が父の手で殺され、兄は敵に捕らえられて父の面前で残酷に処刑され、復讐にかられて敵国を荒らし回った父は、最後に火あぶりにされるという、泣けるところは山ほどある話なのに、観客の中に泣いてる者はほとんどなかった。ようやくラストシーンの田舎の屋敷で、ひとり糸車を回しながら古い歌を口ずさむ、年老いた母親の姿に、初めて客席は涙していたようだが、それもつかの間、たちまち登場人物たちが、すべてコサックダンスで再び登場し、にぎやかなカーテンコールになってしまうのには、あっけにとられた。何から何まで、どぎついとしか言いようのない、こんな趣味の悪い演出を考えたのは誰なのか、パンフレットには書いてなかったけれど、今度からぜひ書いてくださいよ。

ー人間役に、迫力なし・「野生の呼び声」を観てー
猫と犬はちがう。あたりまえのことだが。
「野生の呼び声」の舞台を見て、つくづく感じたのは、それだった。
かのブロードウェイのミュージカル「キャッツ」で、人間が猫を演じて美しいのは、猫の身体の動きが、前足に比べて後ろ足が長いなど、人間と似ているところがあるからだ。犬や狼だと、こうはいかない。変に下品な動きになるし、荒々しさだけが強調される。
アメリカ南部の大邸宅で大切に飼われていた大型犬のバックが、盗まれてカナダに売り飛ばされ、犬ぞりをひく犬として、苛酷な労働や仲間との争いなどを経て、金鉱掘りのソーントンとめぐりあい、生涯の主人として深い心の絆で結ばれる。しかし、ソーントンがインディアンに殺された後、バックはその復讐をした後で、狼の群れに入ってその王者となって行く。
バックを演ずる片山しのぶは、さすがスポーツできたえているだけあって、動きが美しく堂々としているし、そのライバルでバックと決闘して命を落とす、白い長毛犬シュピッツを演じる那須野遼子も、気品と野性の混合した鋭い表情をみせて、しばしば主役を圧倒する。
この二匹に比べると、他の犬がさっき言ったように、動きが皆、今ひとつだし、品がない。あるいは着ているタイツが二人の着ているのと違って、ボロなのかも知れない。皆、うすぎたなくて、うらぶれて見えた。
それでもまだ、人間役よりはましな方であった。仕事いちずの郵便屋、村上セイと大西和子は、地味すぎて影が薄いし、バカな都会人の斎藤眉美、立花朝子も花がない。大自然を知らず、おろおろし、癇癪を起こす町の人間のみっともなさは、よく出ていたが、この二人が多分まったくわかってないのは、バカな役でも嫌な役でも、それなりに魅力を持って演じないと、見ている方はたまらないということだ。さえない、いやな人間だからと言って、ただそれだけで演じたのでは、実につまらない舞台になるのだ。二人が出ている間中、ずっとイライラさせられっぱなしだった。
ソーントン役の田所みどりは、その点いくらかましではあるが、いくら毛皮の服を着込んで顔中不精髭でおおっても、見るからに華奢すぎて、とても金鉱掘りとは見えない。逆立ちしたって無理というものである。彼女がパイプをくゆらせている足元にバックが寝そべっていて、何気なく彼女がバックの頭をかいたりたたいたりしている様子などはちょっといいが、ま、見どころと言っても、そんな程度である。

「やれやれまあ」椅子に身体を沈めるようにして、コピー用紙をめくりながら、美尾さつきはくすくす笑った。「何てこったよ。連中もまったく、ひまだなあ」
「何が目的なんでしょうか?」眉をひそめて、セイが聞く。
「あほらしい。そんなことがわかんないの?」さつきはセイの肩をたたいて、自分の椅子に座らせ、立ち上がった。「まず、観客を減らすことだろ。次に、あたしらを動揺させることだよ」
「だけど、こんなこと書かれたら」優子が手にしたコピー用紙を見つめながら、不安そうな表情をした。「ほんとに、お客は減るのじゃないの?」
「どれ、見てる?」さつきは首を伸ばしてのぞいた。「ああ、それね。山中貴美子の書いたやつだろ?」
「署名はありませんよ」反対側からのぞいて見ていた朱実が言う。
「なくたってわかるよ、その書き方は」さつきはせせら笑った。「どっちみち、気にすんなって。彼女には、どんな悪口書かれたって、ほめられるよりゃ、ずっとましだよ。なあ、美沙やん?」
「そうね」手元のコピーを一年生たちの方に回しながら、美沙もうなずいた。
「どういうことです?」しのぶが尋ねる。
「いやあ、そりゃもう、あいつが何かに感動して誉める評論っていうのはさ、実にもう面白くなくて、退屈なんだ。もってまわった思わせぶりな言葉ばっかり使ってさ」
「そもそも、何を書いているのかわからないって話もあるけど」奈々子がちらっと舌を出して見せる。
「それほどじゃない。書いていることはわかるわよ」美沙がやんわり弁護した。「ただ───どう言ったらいいんでしょうね。読めば読むほど、あの人がほめちぎってる───ほめちぎりたいと思ってるようなんだけど───その小説や映画や演劇が、とってもつまらないものに思えてきてしまうのよね。読もうか、見ようか、っていう気が、ほんとに汗の引くように、すうっとなくなっていってしまうの。あれは実際、あれなりに、まったく一つの才能よね。いったい、どうして、あの人の表現って、あんなにも人のやる気をそぐのかしらね?」
「ほめ殺しって言葉は、あいつの場合、文字どおりなのさ」さつきは、ポットに残っていた紅茶をカップについで、がぶりと飲みながら言った。「あいつにだけは、評価されないようにした方がいい」
「そこへ行くと、たしかにまだ、この悪口の方が、読ませますね」遼子が、コピーを読みながらつぶやく。「何か、文章に熱気というか迫力がある」
「だろ?文章が立ち上がってるもんな」さつきが楽しげにコメントした。「この呼吸を忘れるな、ってアドバイスしたら怒るだろうなあ」
「そりゃ、怒るでしょう」竜子が言った。「じゃ、これは?滝千恵子さんの批評ですかね?」
「そうだろう」
「だと、思ったよ」竜子は紙をにらみつけた。
「バカ丸出しよね。いつものことだけどさ」気持ちよさそうに奈々子が笑う。「批評って、だいたい、そんなものだけど、こいつの批評は特にそう。読んでると、はっはあ、ここがわからなかったんだなとか、こういうことも知らないんだとか、ありありわかっちゃうのよね。不思議じゃない?そういうの、普通、隠そうとしない?」
「だって、そりゃ、しかたがなかろう」遼子が苦笑しながら、読みおわった紙を朱実の方に放った。「こいつは、自分がどこがわからなかったかが、そもそもわかってないんだもの。わかっていたら用心するさ、普通はね。何かここ、自分にぴんとこないのは、自分に見えてないことがあるのと違うかしらん───そう思ったら、ちょっとごまかすとか、そこには触れないようにするとか、いろいろあるだろ、やり方は。だけど、こいつは気づいてないんだもんな。自分に見えてないものがあるってことすら」
「何か、ほんとに読んでいて、やりきれない気のすること、あるわね」美沙は軽い吐息をついた。「彼女の場合、批評を読んでいると、ああ、今はこの人、こんな生きかたしてるのねって、そういうことまでわかってしまうでしょう、いつも?」
「ああ、そういう意味では確かに、自分をかけた批評ではあるのさ───美沙。このびんの中のクッキーって、まだ食べていいの?」
「うーん───大丈夫とは思うけど」
クッキーをかじりながら、さつきは美沙たちの方へと戻ってきた。「たださ、いかんせん、そうやって、かけてる自分というやつがね、彼女の場合、あまりにしょぼくて中身何にもないからさ」
「そうね」美沙もうなずく。「だから、批評を通してあの人自身が見えたって、ストーカー的喜びさえも感じられないのが、読んでる方としちゃ不幸よね」
「ロッカールームをのぞいて見たら、貧弱な肉体で見る価値もなかったってやつ?」
「あら、これ、牧村いずみじゃない」奈々子が、紙を見ながら舌打ちした。「あいかわらずもう、改行は下手だし、支離滅裂の文章よね。そんなことより、この女、あたしの名前を絶対に、奈奈子と同じ字二つ並べて書くんだけれど、喧嘩売ってるんだと思う?あんまり、いつも平然と同じ間違い書いてるから、他のことよりもだんだんそれに、一番腹がたってきた」
「継続は力なり、ってやつだよ」遼子が笑う。
「それにしても、しのぶの評判がいいね」眉美が感心した。「この人たち皆、しのぶの演技が好きなのかな」
「バカ。これはね、しのぶが観客に人気があるから、反発かわないようにしてるだけだよ」さつきが教えた。「特に、こういう目的があって批評する場合には、自分のポリシーなんてあるはずないだろ。あっても、それは、二の次さ。観客というか大衆というか、それに逆らうことなんか絶対言わない。でもって、ちょっと人気が落ちたと思ったら、すかさず袋だたきにするんだって」
「だって、司も人気があるのに、たたかれてますよ」セイが言った。
「司の演技の悪口を言ったって、本人含めて誰も傷つきゃしないからさ」さつきは即座に言い返した。「そんなのはもう、自明の理だろ?これで司が性格悪いとか、みっともないとか言ったら、観客は黙っちゃいないだろうけどね」
「でも、いつまでもそうやって、観客の気に入ることだけ言っていたら、演劇部の人気を落とすという目的は、いつまでも達成できないことになりませんかね?」竜子が顔をしかめて言った。
「ですから、そこは綱引きですわよ」日村通子が微笑みながら、口をはさんだ。「観客の反応をうかがいながら、やれると思ったら、どんなところからでも少しずつ、切り崩して来るつもりなのでしょう」
「でも、これね───」京子が初めて口を開いた。「見ていると、今、あなたたちが言ったようなところもあるとは思うけれど、何だか、いやいや悪口を言ってるような印象も受けるわ。悪口と見せて誉めようとしているような───そんな工夫も感じるわ」
「それは私も何となく」朱実がうなずいた。「無理に書かされている人がいる可能性、ありますかね?」
「それはもう当然、あるのじゃありませんこと?」通子が答えた。「こんな批評がいっせいに出てきたことがそもそも、相当大がかりな計画だということを示していますわ。組織だった動きですわよ」
「黒幕は当然、生徒会かね?」と竜子。
「こんなに見え見えの動きでも、黒幕というのでしたらね」通子は涼しい、人をバカにしたような声で笑った。「廃部になった文芸部に今更握られる弱みもないでしょうから、多分、部を復活させるという、おいしい話とひきかえなのじゃありません?」
「それにしても、生徒会も危ない賭けをするものね」美沙が小さく首を振った。「まだ信任投票もすんでいないというのに」
「だからじゃないの?」さつきが笑う。「文芸部を復興して配下におけば、生徒会活動もぐっとやりやすくなるし、信任投票にも有利だし」
「美尾さん───」みどりが時計に目をやりながら、ちょっと腰を椅子から浮かせ気味にした。
「おお、悪かった。そうか、夜の部の公演か」
「まだ、早いんですけれど、こんな批評が出回っているのなら、お客より先に行って、しっかり準備をしていた方がいいみたい」
「あんまり、緊張するんじゃないよ」さつきは、みどりに笑いかけた。「いつものように、やってりゃいいのさ」
「わかっています。大丈夫です」みどりは笑い返した。「それにしても私、ちょっと太ろうかな───」
「ねえ、バカなこと言うんじゃないよ」竜子が言った。「あんたがそうやって、細っこいから、しのぶの犬が大きく立派に見えるんだからね」

少女たちがあわただしく出て行きかけている中で、まだ憂鬱そうに顔を曇らせて、コピーの束をめくっているセイに向かって、さつきはクッキーのびんを傾けて、差し出した。
「ま、くよくよしても、しょうがないだろ。ただ、新しい批評が出たら、全部チェックはしておいて。インターネットで変な動きがないかもね」
「言われるまでもありませんよ」セイは、クッキーをかじりながら、むっつりと返事をした。
「それから、これ見といて。蘭の会の名簿なんだけど、何か心あたりでもあれば、教えてちょうだい」
あまり気乗りのしない顔で、セイは名簿を見ていたが、やがて、ん?という表情になった。
「待てよ。待って下さいよ。その電話番号って、何か見覚えがあるな」
「どれ?これ?吉川まりさんの連絡先よ、これ」
「うん。でも、どっかで、これ、見たな───」
クッキーをかじる手をとめたまま、セイはいつまでも首をかしげていた。

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