小説「散文家たち」第6章 煙草

孝子先輩へ
少し遅れた新入生歓迎の演劇部公演は、連休をすぎた五月のなかばに、寮のホ-ルで行 われました。去年、孝子先輩に誘われていっしょに見た「七人の侍」がとてもよかったの を思い出して、今年は私が母校の中学から来た新入生の後輩二人を連れて、見に行きまし た。去年と同じ演劇部特製の手作りクッキ-をロビ-で買って後輩たちと食べながら、去 年、孝子先輩と二人で最後に悪役の野武士のリ-ダ-の美尾さつきさんが死んでしまうの が悲しくて泣いたのを思い出しました。ハンカチで鼻をこすって真っ赤にしていた先輩の 横顔、かわいかったです。先輩はあれから、日本の農村に興味を持って、野武士の研究を するんだって言って、とうとう明倫大学の歴史学科に入っちゃったんですよねえ。大学生 活、たのしいですか?野武士の勉強、してますか?
演劇部は、四月に練習中の事故があって、きびしい処分をうけました。もう廃部になる んじゃないかって噂もあったぐらいで、少し心配しながら見に行ったのですが、全然心配 する必要なかったなって思いました。去年よりもパワ-アップしてる感じさえしました。 「七人の侍」とはガラリとかわって、今年はヨ-ロッパの騎士物語。舞台装置も衣装も、 豪華けんらんでした。
オリジナルの脚本ですけど、お話もよくできていました。ある王国にうり二つの貴族の 兄弟がいて、一人は情け深くてやさしくて、一人は傲慢で残酷で・・・って、そこまでは わりとよくあるお話なんですが、えっと思ったのは、残酷な弟の方が、貴族の圧政に反抗 して森にたてこもっている盗賊の一味にとらえられ、そこでたたきのめされて教育されて いく内に、次第に心をいれかえて民衆の側に立つ情け深い人になってしまうのに、弟に代 わって領地を治める仕事についたお兄さんの方は、初めは情け深い領主だったんだけど、 したたかでずるい百姓たちの姿を見せつけられていく内に、キレてしまって弟以上の残酷 な領主になっていくんです。そのへんの展開って、どっちも何か鬼気せまるものがあって 客席はし~んとしてしまいました。
この、そっくりの二人の兄弟をやった一年生の二人もかわいらしくてよかったけれど、 ク-ルできびしい盗賊のリ-ダ-役をやった二年生の那須野遼子さんがもう、圧倒的にすてき でした。いっしょに行った新入生の二人が、すっかり夢中になってしまって、最後の場面では、ぽろぽろ手放しで泣いていました。美尾さつきさ んといっしょに出る場面はなかったのですけど、あったら、ひょっとして彼女、美尾さん を食うという前代未聞のことをやってのけたかもしれません。それぐらいぴったり役には まっていました。
公演は一日で終わる予定が、見に来た人がホ-ルに入りきれなくて、結局三日間つづき ました。それでもまだ見たいという希望者が多いので(毎回くりかえし見に行っていると いう、とんでもない子もけっこういたみたいだし)、図書館の小ホ-ルでもう何回かやる 予定のようです。
でも、新聞部が今日発行の新聞のコラムに書いた批評はけっこうきびしくて、「西洋中 世に材をとりながら、宗教関係の色彩がまったく出ないのは絶対に不自然である」とか、 「王家も、主人公の兄弟の家も、ともに父子家庭で母親不在である。その結果、母性がま ったく描かれていないのは大きな弱点である」とか、「主役の二人は姿かたちは一応似て はいるものの、動きや表情がまるっきり違うので、あれで周囲が入れ代わったのに気づか ないと思わせるのには非常に無理がある」とか、もうめちゃくちゃ・・・。しかたがない わ、新聞部は演劇部を目の敵にしている小石川ナンシ-さんが部長だものね。
最後になりましたけれど、大学案内のパンフレット送っていただいてありがとうござい ました!先輩に負けないで志望大学に合格するよう、私もがんばります。
では、お身体に気をつけて。
中原志津

和美姉へ
一口に言ってしまうと、演劇部って、やっぱり、すごい!もう、ただ、その一言につき ちゃいます。新入生歓迎公演の「青い地平線」、もう、最高の感動もんでした。卒業しち ゃって、これが見られないお姉ちゃんに超同情!です。でも、ま、いっか、念願のボ-イ フレンドの行ってる大学に合格して、今頃は彼氏とラブラブの毎日なんだもんね。ふん、 何もあたしがうらやましがることないんだ、そ-だ、そ-だ(と一人でナットク)。
ほんというと、演劇部には、このごろちょっとブキミな噂なんかも流れてたんです。何 か、呪いがかかってるとかさ。昔、この学校で殺された女の子の霊がたたってるんだとか って。あたしたちって皆、何だかだいったって、こういう話って好きじゃない?お姉ちゃ んもけっこう、この手の話にはハマってたよね、たしか。
でも、今回の公演はそ-ゆ-噂なんてもうふっとばしてしまいました。衣装がきれい! 音楽がきれい!装置もすごい!そして何より、演じてる皆が最高!
お姉ちゃんごひいきの南条さんは、今回は、しっかり者の村娘に扮してました。こうい う素朴で大地の女神っぽい役やると、この人ほんとにすてきねえ!白い三角の帽子かぶっ て、青い胴着とスカ-トに灰色と赤の花模様のブラウス着て、うちの学校の小川にいるア ヒル抱いて、山羊二ひきを連れて登場したときは、客席はもう拍手かっさいでした。山羊 は、あの、メリルとエマよ。お姉ちゃんが一回かみつかれたことのある。どっちもすごい 根性悪いイジワル山羊なのに、南条さんにはなついてるみたいで、ちゃんと演技してまし た。でも、そこの領主の騎士の役をやる主役の一年生の子は、二ひきのことをマジ恐がっ てるのがミエミエで、それもかわいくて、おかしかったけど。
何をやっても主役になっちゃう美尾さつきさんは、今回は牢屋の囚人のボス。破れたボ ロボロの服着て、それでもって、あの人ったらわざともう、ノミかなんかでもいるみたい に、胸とかお腹とかをわざとガジガジかきむしっちゃったりなんかして、もう、大好き! 髪もひげも赤くて長くてもしゃもしゃで、顔なんてほとんど見えないのに、それでも、牢 屋の寝棚の上から、どしんととびおりてきたとたん、その派手なアクションでいっぺんに あの人とわかって、皆キャ-ッと大さわぎ。地下牢の中がまっ暗なので、手さぐりで仲間 と計画をねる場面なんか、あの人のパントマイムがこっけいで、客席は爆笑々々でした。 他の囚人たちもがまんできずに、時々後ろ向いて、ぶるぶるふるえて笑ってるんだもん。
朝倉京子さんは主人公の二人の騎士のお父さんになっていて、半分白髪のオジサマなん だけど、もう高貴さがにじみ出すみたいで、最初後ろ向きに座っていた安楽椅子から半分 振り向いて、こちらに顔を向けた時から、客席はしいんとして、聞こえるのはもう、ため 息ばっか。そして、ずうっと年老いて弱々しい感じで、見てて何か痛々しいぐらいだった のが、最後に王女を守って冒険の旅に旅立つ場面で、いかにも昔 の勇士らしい、きりっとした若々しさがただよってきて、もう、私なんかそこでいっぺん に、どどどっと泣けちゃって泣けちゃって、カ-テンコ-ルの間もずっと涙がとまりませ んでした。それで何かもうハジっていうか大笑いなのは、公演の次の日の朝、寮の食堂で あたし、朝倉さんといっしょになったんだよね。ゆで玉子のかごにいっしょに手を伸ばし て、同じ玉子をつかんじゃって、朝倉さんはすぐ「あ、ごめんなさい」って言って、玉子 を渡してくれたんだけど、その時あたし、ゆうべのことを思い出して、思わずぽろぽろ涙 が出てきてしまったから、我ながらバカよね-。朝倉さん、玉子のかごの前でびっくりし てました。「すみませ-ん、ゆうべのラストシ-ン思い出しちゃって・・・」とあたしが 言ったら、朝倉さん、やっとわかったみたいで笑ってくれて、また、「ごめんなさいね」 って。感激!
まだ、いろいろ書くことあったんだけど、今日はこの話だけであまりに長くなったんで 一応ここでおしまいにします。お休みなさい。
エリより
追伸
何か、書きにくくて、やめようかとも思ったんだけど(便箋二枚も破っちゃったよ)、 「青い地平線」の中で、すっごく印象に残った場面が、ほんとはひとつあるんです。  はじめはすごい残酷な領主だった弟の方が、森の盗賊たちにとらえられて殺されかけた とき、昔、自分が苦しめた百姓のひとりに助けられて、そのまま森の仲間になり、改心し て仲間といっしょに反乱をおこし、王さまたちを追放して、新しい政府をつくったあと、 お兄さんと城壁で二人きりで話す場面があるんです。
お兄さんは初めから情け深いひとで、森にさらわれた弟に代わって領地を治めてきた人 なんです。そして、いろいろ途中であったけど、結局、弟たちと協力して王さまたちをや っつけるんだけど、そうやって、百姓たちの新しい政府ができてからは、何となく、弟や 仲間の皆となじまないで、ひとり離れてるって感じで。
それで、それはなぜかって弟に聞かれると、お兄さんは言うんです。「私は貴族だ。彼 らと決して同じにはなれない。彼らを好きにもなれない。これまでも、これからも。だか ら、彼らにつくして来たのだ。彼らに借りを作りたくなかった。おまえのように、彼らに 責められたり許されたりするような弱みを持ちたくなかったのだ。これからも私は生きて いる限り、彼らのためにつくすだろうし、死ぬまで彼らのために生きるだろう。しかし、 だからと言って決して、私は彼らを愛しはしない。愛さなくてはならないような借りは一 つも作っていない」。細かいところはちがってるかもしれないけれど、だいたいそういう みたいなことを。
いっしょに見た友だちに聞いても、皆、このせりふのこと、あんまりよく覚えていない んです。主役の二人が並んでる場面だったから、よく似てるなあとか、どっちがかわいい かなあとか、そんなことばっかり考えてたらしくて。
でもあたしは、このせりふを聞いたとき、お姉ちゃんを思い出しました。保育園から小 学校、中学、高校とずっといい子で優等生で、いつも皆にやさしかったお姉ちゃんのこと を。このあと、王さまたちのまき返しで百姓たちの政府は倒れ、お兄さんは弟とすりかわ って、身代わりになって死刑にされるんだけど、あたしがラストであんなに泣いてしまっ たのも、お姉ちゃんのことを思い出してたからかもしれません。
お姉ちゃん、今、幸せですか?・・・なんて、今さら聞くのも変だよね。でも、何だか とても、会いたいよ。

「ジャコポ!ジャコポ!ジャコポ!」
赤ら顔で、ごましおの髪を短く刈り込んだ太ったおばさんが、ゴム長靴の足を片方、石 垣にかけて野太い声で呼んでいた。
寮の掃除をしてくれている清掃会社の派遣員の一人で、少女たちとも仲がよく、おそう じおばさんと呼ばれている女性だ。夕暮れの果樹園にその声がこだまして、石垣の向こう に広がる小川の方へと消えて行った。
おばさんの後ろの大きな桜の木の枝から、くすくす笑い声が聞こえた。太く横に伸びた 枝の上に並んで座って足をぶらぶらさせているのは、田所みどりと浅見司だ。二人とも劇 のときと同じ騎士のかっこうで、羽飾りのついた帽子や銀色の剣までそのままだ。木の上 にいるのはもちろん、果樹園の中を、いつもわがもの顔に歩き回っている大きな二ひきの 雌山羊のメリルとエマが恐いからである。
「おばさん、それって、猫の名前だよね」浅見司が、帽子を片手で押さえながら、枝か ら身体を乗り出して聞いた。「どうして、そんな変な名なの?」
「まあ、あたしがそんなこと知るもんですかね」おばさんは、がっしり太い腰に手を当 て、汚れた手ぬぐいをまきつけた銅色に日焼けしてたるんだ首をのけぞらせて、がらがら 声で笑った。「あの猫は、もう十年以上にもなるんじゃないかね、この果樹園に住みつい て?去年、あたしがここの係になったとき、前の人からひきつぎで、山羊とアヒルとあの 猫にえさをやるよう頼まれたんですよ。そのとき、名前も教えてもらったんだけど、あた しは頭が悪いから、紙に書かなきゃ覚えられなかったですもんねえ」
ちょうどその時、がさりがさりとトマトの苗の列が動いて、ちょっとした小犬ほどもあ るふてぶてしい赤きじ猫が一匹姿を現した。不機嫌そうに固い耳を伏せながら、用心深く 近づいて来て、おばさんが石垣の上に乗せてやったドライフ-ドをカリカリとかじりはじ める。
「でも何か、きっといわれがあるんだよね」司がまた言う。「そんな名だもん」
「そうかもしれないですけどもね、外国の人の名前なんか、あたしらにはわかりません もん」おばさんはまた太い声で笑った。「おおかた、これが子猫だったころ、はやってた タレントさんか何かのグル-プの名前を、誰かがそのままつけたんでしょうよ」
小川の方から涼しい風が吹いてくる。遠くに見える海の上では波がやや高くなって、白 いしぶきが石垣の向こうに上がっている。
「もう、下りておいでなさいよ、お嬢さん方」おばさんは枝の方をあおむいて呼んだ。 「山羊はどっかに行きましたよ。せっかく、かわいいかっこうをしてなさるんだから、お ばさんにも、もうちょっとよく見せて下さんないと」
司は笑って両腕を枝に回してぶら下がり、ひらりと草の上に飛び下りて来たが、みどり はまだためらっている。
「本当に、行っちゃった?二ひきとも?」
「いませんよ。来たって、あんたのその剣で追っ払いなさったら、何てことないでしょ うに」
「あの山羊たち、本当にあたしのことが嫌いらしいわ」みどりは幹をすべり下りて来な がらぼやいた。「特にメリルは、にらむのよ。山羊の目があんなに恐いものだなんて知ら なかった!なのに南条さんったら、にこにこ笑って、もう何匹かふやしたら『アルプスの 少女ハイジ』がやれるわねなんて言うんだから!あんな山羊たちに取り囲まれたら、たと えクララでなくたって、車椅子から飛び出して走って逃げるに決まってるじゃない!?」  言いながらまだ恐そうにあたりを見回しているみどりに近寄って、おばさんは首からは ずした手ぬぐいで服をたたいて、木の葉や木くずを払い落としてやった。司の方はもうと っくに、身繕いする小鳥か猫のように、一人で半ズボンをはたき、帽子を払い、ブ-ツを こすって、あっという間に全身からちりもほこりもなくなっている。
「お二人ともほんとに、かわいくて、きれいだこと」おばさんは手ぬぐいを首に巻き直 しながら、ほれぼれと二人をながめた。「今日はもう、お芝居はないんですか?」
「そう、追加公演も今日でおしまい。今から『オリエント急行』で打ち上げパ-ティ- なの!」司はうれしそうに草の上で飛び上がった。「お店のウェイトレスしてるミカちゃ んとユリちゃんが、近くで見たいって言うからさ、劇の時のかっこうのままで、皆集まる んだよ!ねえ、みどり・・・ねえ、みどり・・どうかした?」
みどりは果樹園の向こうを見ている。校門から入って来る道がこちらへ曲がってくるあ たりだ。そこに、背の高い人影が見えた。肩幅が広く、長い髪をむぞうさに首筋のあたり で結んだその人影は、松葉杖をついて身体を支えながら、ゆっくり歩いて来る。
「しのぶ!」司が叫んだ。
同時にみどりが走り出す。帽子が草の上に落っこちて転がって行くのもかまわずに。司 も全速力でその後を追った。
へいの上でえさを食べつづけていたジャコポが、司の声と二人が走っていく物音に、ぴ くんと耳を動かして、不愉快そうに横目でにらむ。
「怪我をして、入院してたお友だちがやっと帰って来なさったんだよ。そんなに怒るも んじゃない」おばさんはなだめるようにそう声をかけて、節くれだった手のひらで、ゆっ くりとジャコポのがさがさした剛い毛の頭をなでてやった。

走り寄ってきた司とみどりを迎えるように、片山しのぶは松葉杖を草の上に投げ出し、 そのまま両手を大きく開いた。とびついてきた二人を抱きとめて笑ったその顔は、怪我を する前と少しもかわらない、さわやかな明るい暖かさに満ちていた。同じ一年生だが、司 やみどりよりは頭ひとつ背が高く、スポ-ツ万能だけあって、たくましいと言いたいぐら いに手足も太くしっかりしている。
「何で、黙って帰ってくるのよ?」司はしのぶが肩にかけていたバッグをとりながら、 唇をとがらせた。「前もって知らせてくれたら、ちゃんと歓迎パ-ティ-とか皆で計画し たのにさ!」
「そんな派手なことやられたら、ばったり倒れて気絶しちゃうよ」しのぶは真面目な顔 で言った。
「いいよ、いいよ、どうせ今から、『オリエント急行』で打ち上げパ-ティ-なんだも ん。あんたの全快祝いもいっしょにやっちゃおう」司は草の上から拾った帽子のひとつを みどりに手渡しながら、はずんだ声でそう叫んだ。
「今から?」
「うん、あたしたちも今から行くところ」みどりは松葉杖をしのぶに持たせながら、気 がかりそうに首をかしげた。「でも、あそこまで歩いて行ける?足、大丈夫?」
「どうかな。大丈夫だとは思うけど」
「自転車持ってくるよ。みどりもそうしようよ。そして二人で交代に、しのぶを乗せて いけばいい」
しのぶはちょっと何か言いかけて黙った。
「何?何かいけない?」
「いけないことはないけれど、二人のそのかっこうで自転車かあ・・とか思っちゃって さ」しのぶは笑い出した。
「あいにく馬がいないもんで」と司。
「馬車も出払っていまして」とみどり。
「でもよかったね。退院手続きが思ったよりも長引いて、とうとう皆の公演見られなか ったけど、さっきバス停で会った女の子たちが興奮してしゃべってるの聞いたよ。大成功 だったらしいね」
「うん・・しのぶがいたら、もっとよかったんだけれどね」司はちょっと申し訳なさそ うに目を伏せながら、しのぶの白いシャツの腕に手をかけた。「でも、今度またいっしょ にやれるから・・・とにかく、自転車取って来る!」
荷物と帽子を草の上に放り出して司はかけ出し、みどりもしのぶにちょっと笑いかけて から、すぐその後を追って行った。
ひとり残されたしのぶは、帰ってきたことをたしかめるように、あらためてゆっくりあ たりを見回した。果樹園の木々の間には、もう薄紫色の夕闇がたちこめはじめ、浜砂寮の 窓のいくつかには、カ-テンの色を透かせた緑やバラ色の灯がひとつふたつ、灯りはじめ ている。小川の方では、水音にまじってアヒルたちが鳴きかわす声が低く響き、どこか遠 くで運動部が練習しているらしいかけ声や、音楽部のらしいコ-ラスの声がかすかに風に 乗って届いてきた。
果樹園のへいの上に、ジャコポの姿はもう見えない。おそうじおばさんの方はまだそこ に立っていて、こちらに背を向け、太い腕を首の後ろに組みながら、身体をゆっくり左右 に曲げて、何かラジオ体操のようなことをしていた。

夜はすっかりふけている。今夜は満月に近いのか、金色の丸い月がぽっかりと空に浮か んで、こうこうと明るい光に照らされたおだやかな海面には、波がきらきらと輝いてゆれ ていた。いっぱいにライトをつけた、おもちゃのように美しい船が水平線のあたりを横切 っていくのが見える。
『オリエント急行』の店の奥のテラスでは、今、桃色と緑色のまぶしい火花の尾をひい て花火があがった。さっきからこれでもう十本目に近い。見上げる少女たちの歓声もいち だんと大きくなっている。
「寮の門限まで、あと一時間!」テラスの四方の柱にたかれたかがり火の下で、火の粉 を半身に浴びながら、手すりによじのぼった美尾さつきが、北欧のバイキングのような赤 い髪のかつらとひげを風になびかせて大声で叫んだ。「思い残すことのないよう、めいっ ぱい飲もう!」
拍手と笑いがそれに応えた。
老騎士の衣装に身を包んだ京子は、さつきの登っている柱の下の手すりにもたれて、牢 役人の扮装の朱実と肩を並べて立っていた。黒ずくめの盗賊の首領のかっこうをした遼子 は煙草をふかしながら、村上セイとしきりに何か議論している。片山しのぶが椅子に座っ ている回りには、みどりや司をはじめ、村の若者姿の眉美や、貴婦人姿の朝子など、一年 生たちが集まっていて、時折にぎやかな笑い声が起こっている。
今夜は「オリエント急行」のママはお休みでいない。店ももう閉めていて、ユリちゃん とミカちゃんが、せっせとジュ-スや料理を運んでサ-ビスしている。
金の大きな冠を頭にかぶった峯竜子が、赤ワインのびんを片手に持ち、紫のマントをひ るがえしながら、のしのしテラスを横切って、緑川優子と何か話していた美沙のところに やって来た。
「例の奥のへやのボ-ル箱から、また何か出て来たんだって?」彼女は美沙のコップに ワインをつぎながら、優子に向かってそう聞いた。
「そうなのよ」妖精のように小柄でほっそりした緑川優子は、それにふさわしい鈴を振 るような、いつもの細い声で答えた。「今朝、学校に行く前に、私と朱実と日村さんと美 尾さんとで奥のへやをかたづけていて、この前とは別の隅に積んであったボ-ル箱を開け て見たら、それがまた、舞台衣装や小道具で・・でも、今度は皆、軍服や鉄砲なの。服に は血までついていて、もちろん本物ではないんでしょうけど、見ているだけでも恐くなり そうなものばかり。でも、美尾さんは大喜びで、これで次の脚本は決まった、南条さんに ベトナム戦争ものでも書いてもらったらいいなんて、はりきってらしたけど」
「やれやれ、美尾さん、この前は、次はそろそろミュ-ジカルだなんて、あたしに言っ てたのになあ」
「それは、私がさつきに言ったのよ」美沙が優子の皿の上に、料理をのせてやりながら 言う。「だって、この『青い地平線』の衣装を利用して何かやるとしたら、ひらひらスカ -トとか剣とか、どっちみち西洋ものになるしかないでしょ。だったらせめてミュ-ジカ ルでもしないことには、目先が変わらないんじゃないかって思って」
「今年の一年、皆わりと歌はうまいですよ」竜子は、片山しのぶの回りの少女たちをち らと見た。「踊りもバレエやってたやつが何人かいるみたいだし、けっこういけるのとち がいますか」
「でも、あれだけ、迷彩服だの機関銃だのが出てきちゃったら、ちょっと食指は動くわ ね。軍隊ものをやってみたいという」美沙は笑った。「ホウリュウシはまだ、見てないん でしょう?今度のボ-ル箱の中身もまた、行き届いているっていうか、それはそれは、す ごいのよ。ちぎれた赤ん坊の首や、兵士の手首まであるの。悲惨な戦場の小道具にはこと かかないけれど、でもやっぱり、最初にあれが出て来ないでよかったわ。あの箱をはじめ にあけていたら、あたしも、さつきも、どうなったかしら。二人そろって気を失っている ところを発見されて、演劇部の呪いとかいう噂はもう、決定的になっていたわね」
「あれ・・・」竜子は美沙の顔を見つめた。「南条さん、その噂、知ってるんです?」  美沙はワインをすすって、うなずく。
「誰から聞きました?」
「あの子よ。同室の、早川雪江さん」
「あれかあっ!」竜子は王冠をかぶっているのを忘れて頭をたたき、あぶなく冠を海に 落とすところだった。「忘れていたよ。そうか、あいつの好きそうな話だもんなあ。案外 ひろめた張本人もあいつだったりして」
「それはないでしょう。けっこう、本気で心配してくれていたわよ。今度は誰が怪我す るんでしょう・・って。まあね、それはあの子のことだから、私たちひとりひとりの傷つ いて苦しんでいる様子をひとりひとり空想してみて、誰がどうなるのが一番なまめかしく て素敵かとか、考えてたかもしれない。その可能性は私も否定しないけど」
「でも、その噂、二年生にも少し広まりはじめています」優子が心配そうに口をはさん だ。「何人かから私も聞かれましたから。演劇部をやめた方がいいんじゃないのって忠告 してくれる友だちまでいて、けっこう皆、深刻にとらえているみたいです」
「京子さえ嫌がらないなら、その噂を逆手にとって、ホラ-ものでもやるんだけど」美 沙はいつもの暖かい笑みをうかべた。
竜子が何か言いかけた時だ。
ざわめいていたテラスの一角が、突然しんと静まり返った。その異様な静寂が次第に全 体に広がって行く。あっと息を呑む気配があちこちでして、誰かの手がすべって落ちたの か、コップかお皿が、がちゃんと床に転がる音がした。
美沙と竜子は顔を見合せ、立ち上がる。
海の方から浜辺を伝って、このテラスに上がって来る道がある。今、その道に通じる階 段を上がって来て、美沙たちがいるのとは反対側のテラスのはしに立って、パ-ティ-の 会場全体を見回しているのは、小石川ナンシ-と細川先生だった。二人の背後には、木村 芳江や桜木千里ら数人の、生徒会役員が従っている。
そして、今や完全に静まり返ったパ-ティ-会場に、細川先生の乾いた冷たい声が響い た。
「演劇部の皆さん。本学の規則では、喫煙と飲酒は即退学。そういう部員が出た部は即 廃部。忘れたわけでは、ないのでしょうね?」

夜とは思えないほどに青く美しい空に、まぶしく輝く月の光は、白と灰色の雲の流れを 浮かび上がらせ、金銀の波を海の上にゆらめかせている。どこか夢のように美しい光景だ ったが、その光景が示す状況は悪夢そのものだった。
テラスの上の少女たちは、誰一人、動こうとしなかったし、口を開こうとする者もなか った。あちこちに立ったワイングラスやワインのびん。ビ-ルのあきかん。吸殻が山盛り になった灰皿。そこに置かれた吸いさしの煙草。それらのどれもが、もう隠しようもなけ れば弁解のしようもないことが、誰にもわかっていたからだ。
誰もが何も言えないでいる内に、細川先生と小石川ナンシ-は、ゆっくりと皆の間に歩 み出そうとしかけた。
その時、叫び声がした。
「誰・・・誰も、お酒や煙草をのんだ人なんて、いません!」
はじかれたように、皆がそっちを振り向いた。
声の主は、ウェイトレスのミカちゃんだった。お盆を白いエプロンの胸に抱きしめたま ま立ちすくんでいた彼女は、この時、いつもの内気さはどこへやら、しっかりとした足ど りで、近くの演劇部員たちを押しのけるようにして前に出て、小石川ナンシ-と面と向か い合って立った。
「誰も、お酒は飲んでないし、煙草も吸っていません!」彼女はナンシ-を見つめたま ま、固い口調でくり返した。「これ・・・これは皆、次の新しい劇の練習です!」
細川先生とナンシ-はあっけにとられたように、まじまじとミカちゃんを見つめた。や がてナンシ-が薄笑いを浮かべて何か言おうとしたが、その時、峯竜子が歩み出て来て、 ミカちゃんをかばうように、その前に立った。
「そうさ。劇の練習よ。何だと思ったのさ、小石川さん?」
まだ、何の反応も起こせないまま、呆然としている皆の中で、さすがにすばやく美尾さ つきが、赤いひげと髪とをむしりとりながら、ひらりと手すりから飛び下りて来た。
「聞いたろう、小石川さん?」彼女はナンシ-の肩に親しげに手をかけながら、愛想の いい声を出した。「次の創立記念日の公演を、ぜひ楽しみにしていてほしい。細川先生、 そういうことですので、ここはこのまま、どうぞおひきとり下さい」さつきは、にっこり 微笑んで、大きく優雅に片方の手を階段の方へと広げた。
「劇の練習?」ようやく我に返ったらしい細川先生が、皮肉っぽく笑った。「これだけ 皆で集まって、お酒と煙草を飲む場面の練習をしなくてはならない劇なんて、いったい全 体、どういう、何の・・・」
「細川先生!」ナンシ-が突然、鋭く制した。彼女は、さつきの手をふりもぎると、逆 に彼女の肩をつかみ、同時に竜子の腕もつかんで、二人が背中あわせになるように身体の 向きを変えさせた。
「二人とも」ナンシ-は言った。「もちろん、その劇の題名はわかっているはずだわね ・・・返事はしなくてけっこうよ。わかっているなら、うなずきなさい!」
負けた、というように、さつきがぴくりと唇をひきつらせた。竜子も、くやしそうに空 を見上げ、肩をゆすって足をふみかえる。だが、二人ともうなずいた・・・背中あわせに 立ったまま。
ナンシ-はポケットから手帳を出すと、白い紙をばりばりと破り取り、竜子とさつきに 一枚ずつ渡した。胸ポケットのボ-ルペンを抜き、木村芳江を手招きすると、その胸ポケ ットのボ-ルペンも抜いて、一本ずつをさつきたちに手渡す。
「その劇の題名を書きなさい」ナンシ-は命令した。「口をきいてはだめ。他の人も、 皆、動かないで。何も言わないように。どんな動作もしないでちょうだい!」
大半の演劇部員が、このころになってようやく、さっきから起こっていることの意味が 次第に呑み込めてきたらしく、押し殺したざわめきがあたりに広がりはじめた。
あきらめたような表情で、さつきは海の方を一度見つめると、そのまま目を伏せ、ペン を走らせた。竜子も黙ったまま、紙に何かを書きつける。ナンシ-はもどかしげに二人の 手から紙をひったくりとって、すばやく目を走らせたが、たちまちその顔には勝ち誇った 笑いが浮かんで、彼女は二枚の紙切れを、皆に見せるように高くかかげた。
「さつきは『カルメン』と書いてるし、竜子の書いたのは『プラト-ン』。語るに落ち たというところね」ナンシ-はせせら笑った。「たしかに、どちらにも集団で煙草や酒を のむシ-ンは出てくるけれどね。劇の練習などというのが、真っ赤な嘘だということは、 これでもう、はっきり・・・」
「何が、はっきりしたのかしら?」
南条美沙の穏やかな、落ちついた声がした。
ナンシ-がくるっとそっちを向く。村娘の衣装の胸に腕を組んだまま、美沙はほのかに 笑っていた。
京子より、さつきより、いざとなると美沙の方が恐い、という少女は特に上級生の中に は多い。美沙の姿勢も表情も、ふだんと特に変わったところはなかったが、その穏やかな 笑いのあまりの穏やかさの中には、そのような、年長でさつきや京子や美沙のことをよく 知っている同級生の女の子たちの美沙に対する恐れが、もっともであると納得させるだけ の迫力があった。ナンシ-さえも一瞬ひるんだようだったが、たちまち彼女は前よりいっ そう目を燃やして、美沙をにらみつけた。
「一つの劇のはずが、二つの題名が出てきたのでは、誰だって・・・」
「そこがあなたの早合点だわ。一つの劇って、誰が言ったの?」美沙の声は落ちついて おり、怒り狂ったナンシ-の目と正面からぶつけた視線は、ゆらぎもしなかった。「創立 記念日は一日お休み、わが演劇部では昼夜二回の公演をするの。昼は『カルメン』、夜は 『プラト-ン』。言っておくけど、配役はまだ未定よ。今日の練習で、皆に自然に動いて もらって、誰がどの役になるのが一番いいか、決定する予定だったから。『カルメン』の 演出は那須野さん、『プラト-ン』は上月さん。細かいことはその二人にまかせてあるか ら、他の者は何も知らないわ。何か聞きたかったら、二人に聞いて」
美沙のゆったり優しい声が流れていく内、演劇部員たちは、その声になだめられるよう に次第に落ち着きを取り戻しはじめた。不安そうに顔を見合わせている者もいたが、何人 かはナンシ-や細川先生の方を見て、そうですというようにうなずいて見せた。特に遼子 と奈々子とは、自信ありげに平然とナンシ-たちを見返している。この二人を屈伏させる のは至難の業だし、二人に限らず、もうこうなったら、演劇部の面々はめったなことでは 降参しない。そのことをよくわかっている細川先生は、しばらくの沈黙の後、怒りをこめ て指先でばしっとテ-ブルのはしをたたいた。同じようにして手首をたたかれたことのあ る何人かが思わず首を縮める。細川先生は冷やかに言った。
「いいでしょう。皆さん。そこまで言うのならね!創立記念日まではあとひと月、二十 人たらずで、その二つの劇を一日の内にやれるというのだから、必ずやってみせなさい。 手抜きも、中止も、予定の変更も、絶対許しませんからね!上級生の皆さんはよくご存じ と思いますが、本校の創立記念日は、長い伝統ある行事です。当日は市長もおいでになる 予定です。学長ともども、皆さんの劇を観劇なさるでしょう。本校の恥になるようなもの を上演したら、処分の取り消しなどはいつのことになるかわかりませんよ。それは覚えて おいでなさいね」
「ということは、もし、学長や市長に深く感動していただけるような、すばらしい劇を 上演したならば、処分は取り消しという可能性もあると思ってよろしいのですね?」笑い をたたえた表情のまま、静かに美沙が問い返す。
細川先生は射るような目で美沙を見た。
「たしかに、もし、そんなことができでもしたら、私から学長に処分の取り消しを進言 いたしましょう」えぐるような皮肉をこめて、先生は言った。「行きましょう、小石川さ ん。この人たちがここまで言うからには、やらせてみようじゃありませんか。お手並み拝 見、ということですよ!」
ハイヒ-ルのかかとを鳴らして歩き出そうとした細川先生を、ナンシ-は軽く手でとめ た。
「もう少しだけ、お待ちになって下さい、先生」
ナンシ-の声は再び自信を取り戻したようだった。誰かをさがすように、彼女の視線が テラスの上を動いて行って、やがて、かがり火の下に海を背にして皆から一人離れて立っ ていた朝倉京子の上に止まった。
一人離れていたのは必ずしも偶然なのではない。竜子も、さつきも、美沙も、皆、ナン シ-の目を京子からひきはなそうとして、ことさら京子の反対側へ反対側へと動いて来て いたのだから。
そして、ナンシ-と目があった時、京子が彼女としては珍しく・・・というよりは、こ れまで一度もなかったことに、逃げ場所をさがすように、かすかに左右に視線を動かし、 身じろぎしたのを細川先生は見た。

ナンシ-は、ゆっくりと京子の方へとテラスを横切って行った。その間に、さつきはそ ばにあった椅子に腰を下ろし、テ-ブルにひじをついて、あきらめたように両方の手のひ らで顔をおおってしまったし、美沙はひっそりと深い吐息をついて、片方の手でもう一方 の腕を抱え込みながら静かに肩を落としてうなだれた。片山しのぶと、回りをとりまく一 年生たちも、二人のそんな様子を見て皆しょんぼりした顔になる。しのぶは椅子にもたせ かけていた松葉杖に頭をつけて目を閉じてしまい、朝子と眉美は抱き合っており、和子は こぶしをにぎりしめていた。ユリちゃんと優子は手を取り合っているし、ミカちゃんはそ の後ろで祈るように両手の指を組み合わせている。竜子はまだあきらめきれないようにナ ンシ-と京子の方をちらちら見ながら、いまいましそうにテ-ブルのそばに仁王立ちにな って、ストロ-を細かく指でちぎっている。
ナンシ-が目の前に来て立ち止まった時、京子はナンシ-の顔を見てはいたものの、ま た、後ろ手に手すりの横木をつかんだその姿勢のどこかに、できたらこのまま背後の海へ 飛び込みたいと思っているような気配がちらとただよった。
「朝倉さん」ナンシ-の声はいやになるほど静かだった。「さっきからの皆の話は、本 当なの?演劇部員が今夜ここで、酒を飲み、煙草を吸っていたのはすべて、創立記念日に 上演する二つの劇の練習のためだった・・・そういうことで、まちがいはないのね?」  京子は目を伏せた。「いいえ。その話はまちがっているわ」
誰も動かなかった。声もあげなかった。数人が、ああという深いため息をついただけだ った。昼間のような月の光が、テラスの木の床の上に、立ち尽くしたまま動かない少女た ちの黒い影をくっきりと描き出していた。
ナンシ-が、ゆっくり念を押した。
「私が今言ったことは、本当じゃないのね?」
京子は目を伏せたままだった。「ええ」
「どこが、どんな風に?」
ほんのわずかな沈黙があって、京子が目を上げ、ナンシ-を見た。月の光のせいだけで なく、その顔は青ざめていたが、ナンシ-も、たまたまそちらを見ていた演劇部員たちも 思わず息を呑んだほど、はりつめて激しい美しさのみなぎる顔だった。
「お酒を飲んで、煙草を吸っていたと、あなたは今言ったけれど」一言、一言、はっき りと、かみしめるように京子は言った。「お酒は口をつけて飲むふりをしていただけ、煙 草は火をつけて灰皿においていただけ。それ以外のことは全部、あなたが言ったとおり、 ・・・さっきから皆が説明したとおりだわ」
はじかれたように愕然と、さつきが振り向く。美沙は黙って目を閉じた。ナンシ-がも し振り向いて、演劇部員たちの表情を見たら、それはもう明らかにおこるはずのないこと がおこったという表情であり、京子が嘘をついたという確信をいくらでもつかめたにちが いない。だが、ナンシ-は振り向かなかった。彼女自身が、まるで空が落ちるか太陽が消 えたのを見るように、呆然として京子の顔を見つめつづけていたからだ。
そしていきなり、何も言わずに彼女は振り向き、大股にテラスを横切って階段を下りて 行った。
細川先生と生徒会委員たちも、その後につづく。
あとはまた、沈黙の中に、鋭く冷たい月の光が音をたててふりそそぐようだった。
「寮の門限に、遅れるわ」静かな声で言って京子が、手すりから身体を離した。「かた づけて、ひきあげましょう」
「あとは、私たちがしますから」ユリちゃんが、テ-ブルの上の皿を重ねようとした京 子の腕に手をかけて止めた。「どうぞ皆さん、帰られて下さい。間に合わなかったら、大 変だから」
京子はうなずき、他の皆もあわただしく階段を下りはじめた。残っている者がいないか とあたりを見回した京子は、さつきが一人、まだ椅子に座ったままでいるのを見て歩み寄 り、その肩に手をかけた。「行くわよ、さつき」
何かに腹を立てているように、荒々しく首を振って返事もせずにさつきは立ったが、京 子と目が合うと、いきなりその首に腕をまわしてかじりつき、京子の肩に顔を埋めてしま った。京子の耳に、熱い激しいさつきの息がかかり、大抵の人がさつきからは、まず聞く ことのない言葉・・・「ごめんなさい!」の一言が、ものすごく低い声だがはっきり聞こ えた。
「いいったら、さつき」京子はさつきの肩ごしに、月光に輝く海を見ながら、ぼんやり 言った。「行こう、もう。急がないと遅れるよ」

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カツジ猫