福岡教育大学物語53-見果てぬ夢
例の三つの問題点、給与、人事、懲戒の不透明化について書こうとすると、例によってまた話が四方八方に広がって、とっちらかりそうなので、小さいことから、ぼちぼちと書こう。
このホームページに「金時計文庫」という私が自費出版した学生の授業用のテキストを紹介しているコーナーがある。
そこの説明にもあるように、もともとこれは、授業の資料としてプリントで配っていたものである。
それを、こうやってパンフレットにしたきっかけのひとつは、論文や著書の数を徹底的に調査して勤務評価に活かそうみたいな話が教授会で出て来たのにムカついて、「昔は出版社から本を出せるのが、研究者としてのひとつのステイタスだったか知らんが、そんなのはもう石器時代のこと、自費出版がこれだけ簡単にできる現在、そんなことしたら著書の数なんて、いくらでも増やせるやろうがアホ」とひそかに思って実験してプレッシャーをかけてみようと思ったからだ。
もちろん、こうした方が授業や学生にとっても有益だという判断は、それとは別にきちんとあったし、おかげでこうして公開して皆に読んでもらえるものができたのは、けがの功名だったかもしれない。
アホとかプレッシャーとかいうのが誰に対してのものかは、その時もはっきりしていたわけではない。当時はまだ寺尾先生の前の若い学長の時代で、教授会も講座も普通に機能していた時期だが、それでも、文科省や社会や内部の声もあって、「教員の働き方や能力を、もっと目に見えるかたちで、きちんとはっきりランク付けできないか」という試みが、常にもぞもぞ動いていた。
そのころでも、勤めた年数や年齢などで一応の目安となる俸給表のようなのがあって、それをチェックすれば、誰がどのくらいの等級になるか給与をもらっているかは、ある程度わかった。いくら何でもまだそれは似たものぐらいはあるだろう。それに加えて、教授や助教授(今は准教授)、講師、助手のランクでも給与の差はついた。
俸給表には頭打ちみたいなのがあって、ある程度の高齢になると、それ以上は上がらない。だから定年前の数年は、給与が上がる楽しみはなかった。
さすがに、人事や学生などという重要委員会の委員にはなっても、教務や予算という数字を扱う委員会には選ばれたことのない私だけあって(笑)、このへんの話はろくに覚えていないし大ざっぱな記憶しかないが、多分だいたいまちがってはいない。
教授や助教授や講師や助手のどのランクで採用されるかは、年齢や業績、その時のポストというか枠というか椅子というかがどのくらい空いているかで決まる。「教授が一人定年や転出でやめて、そこにこれまで助教授だった人が昇任するから、助教授の椅子にひとつ空きができて、でも今の助手の人は若すぎて勤務年数も業績も少なく、規定の数に達してないので、そこに昇任できないから、国中の大学に応募書類を出して、新しく助教授を採用しよう」という風に考える。(時によっては、講座間でこのポストの貸し借りなどもあって、恐ろしくややこしい状況になるのを、私はしょうもない二次創作で笑い話にしたことがある。)
この時の外部からの採用や、内部からの昇任は、講座が本人の意志も確かめた上で講座会議で決定する。それぞれの場合に必要な論文や学会発表の業績数は規則で決まっているので、それに達しているかを確認して、業績表や履歴書を本人に作ってもらい、論文のコピーなどをそろえて、皆で読んで審査して、それから、関連する分野の他の講座の先生に頼んで委員になってもらって、講座と他の講座の先生で構成する委員会を作り、教授会で承認してもらって、事務の人にも記録とチェックのために加わってもらって、また業績や履歴を調べ、論文を読んで議論し、最終的には投票する。その結果を教授会で報告し、論文の要約(あれ、論文そのものもだっけ)を回覧して、またそこで投票する。その前後にまだ何かあったような気もするが、とにかくそういういくつもの手続きを踏み、どの段階でもクレームをつけようと思えばつけられた。
そういう制度の残骸がどの程度、今は残っているのか知らないが、それはまた、後で書く。
こういう時にチェックされる以外では、教員各自がどのくらいよく働いているのかは、評価されないし、わからない。役職者はもちろん、各種委員会の委員や講座主任もそれぞれに激務であるし、それ以外にも日常の授業の準備や成績採点、学生指導などがぎっしりつまっている。学生指導も授業や卒論指導だけではなく、授業料がとどこおったり、万引その他の犯罪に関わったり、最近では出席状態が悪かったりしても、保護者や自治体や警察と相談しなければならない。お金を貸して踏み倒されたりすることもある。留学生を引き受けていると空港まで出迎えに行ったり、下宿やバイトなどの相談に乗ることも普通だ。サークル顧問の先生は、その関係の仕事もある。
附属学校や小中高や幼稚園や自治体など教育実践の現場に関わる、教育実習をはじめとした日常的な交流や連絡や諸行事の仕事も、特に教育関係の科目を担当する先生たちには学外への出張もあって激務である。加えて入試関係の作業は、ほとんど一年中準備に費やされる。これについては私の「大学入試物語」でも見ておいていただきたい。
それ以外にも、自分の専門研究のために調査に出かけ、資料を集め、論文を書かなければならない。これにかける時間も金も精神力も膨大なものがある。
ちなみに、いよいよせっぱつまった、妊娠したがどうしたらいいだろうとか、死にたくなったがどうしようとかいう学生と、だらだらふわふわぼんやりした会話を長時間して気分を変えてもらうような教育者として仕事は、身近な先生にも学生にも絶対に見えないし見せられない。そもそもそんな相談はオフィスアワーとか何ちゃらで、はいどうぞそこに座ってご相談は何ですかと聞いて話してもらえるものではなく、でれっとヒマそうに研究室にいて、タレントや漫画や食い物の話を数時間もした後で、ふらっ、ぽろっと出てくるものだ。そんなことをどの先生がどのくらいやっているか、あるいはまったくやっていないかなど、まるでわからない。一人の先生があるとき「学生のどろどろした心情を吐露されるわけだから、こちらも、ふらふらのよれよれになる」と言っておられたことがある。そういうことで、ああこの人もかと、わずかにわかるぐらいである。
ついでに言うと、直接相談や悩みの吐露をしなくても、単にだらだら長時間の無駄話をして、のほほんとお茶や酒を飲んで気が晴れて、自殺や殺人を思いとどまる学生だって少なくはないだろうから、まったく何もしないで研究室で昼寝している先生だって、そういう仕事は自分でも気づかずしている可能性もある。
まあ、そこまでは考えないで、はっきりと目に見えるカリキュラムの作成や、レクレーション(学生との研修旅行など)の担当や、予算の確認や、机や椅子や黒板といった物品の数の確認(これは本来教員の仕事ではないし、ひょっとしたら法律違反かもしれないが、あいつぐ大学の人員削減の中ではもう私のいたころでは、教員がぶあつい帳簿片手に、講座の本棚やパソコンや扇風機や印刷機の数を確認する大作業はあたりまえになっていた。公務員の削減をして合理的な職場を作ったと帳簿の上でほいほい喜んでる人たちは、この実態も知っといてほしい)などと言った、これらの業務の多くは、義務やノルマとして強制されるわけではない。絶対にいやだしないとつっぱねたら、誰もそれ以上は何も言えない。また昇任もしたくなければしないでもかまわない。だから、徹底的に怠けて、サボって、家庭サービスや猫の世話や釣りやネットや、いつ完成するかわからない研究に明け暮れていてもクビになるわけではない。
最初の方で、内部からの声もあると言ったが、当然しっかり働いて論文も書く若い先生などは、これを何とかできないかと思うこともある。今はベテランで偉くなってもしかしたら要職についておられるかもしれない、他の講座の当時は若い先生が、一度委員会のときか何かにふと、こういう委員会に費やした時間とか、そういうものも皆カウントして、全員の仕事ぶりがわかるようなシステムが作れないものでしょうかと、ひとり言をつぶやくように提案されたことがある。そうですねえと私は言ったものの、それきりになった。そう思われるのは無理もないと思った。一生懸命働いていて、能力も高い人なら、一度は描く夢だろう。
あるいはまた、それとは別に、学校でも職場でも国でも世界でも団地でも公園でも、成績や年収や車種や学歴や美醜や身長体重や交友関係や服装やその他いろいろ、あらゆる基準で目に入る限りの人間をランク付けして順位を決めて、自分がそのどこに位置するか確認しつづけておかないと、不安だし上昇志向も生きがいも持てないという人にとっては、たとえどういうかたちでもいいから、そういうABCからXYZにいたるまでの順列というのが、多分のどから手が出るほど、空気や水のように欲しいのだろう。
だが、今まで書いたことでも少しはわかるように、それはそもそも、ものすごく無理である。たとえば速さや強さを競う否応なしに優劣がわかるスポーツの世界や、勝敗が明確な囲碁将棋の世界や、ねじばっかり作っている会社とか、契約数を棒グラフで明示できる保険会社や銀行などならやりやすいが、あらゆることが多岐にわたり、専門分野がばらばらの大学ではそんなランク付けは、考えるだけ時間の無駄だ。
とは言え私は最近給与配分の実態がまったくわからないらしい教育大学の様子を見ると、大嫌いだった銀行や保険会社のノルマや成果順の棒グラフの方がまだましかもと感じたりするし、何らかの優遇措置や特別待遇など、その場しのぎの場当たり的な対処は、むしろこまめにやるべきだろうと考えてはいる。
また、そういう完璧な順位付けのシステムへの夢や追求は、火星の移住計画や恋愛もできる人工知能やゴキブリの完全駆逐をめざす計画ぐらいには、忘れないで考えつづけていてもいいかとは思う。しかし、そのためには、本当に詳しい実態調査と、良心的で誠実で潔癖な人たちの判断が不可欠だし、そうやって作っても、しょせんは中途半端だし、完璧なものなど望めない。たとえば採用時とか昇任時など、要所要所をきちんとしめてチェックすることぐらいしか、現実的にはできそうにない。
多分まじめで熱心な理事さんが、おかしいと思って指摘した、特別給与の配分もそうで、きちんと評価してふさわしい人に与えようと思った結果、現在は、自分が自分を数十項目のリストをABCで自己採点して提出するB4用紙一枚で、それをどういう基準で順位をつけて誰に与えているかわからない、金額もはっきりしないという、回り持ちで配分していたときよりも明らかに不明瞭な状態になった。
ひょっとしたら、これで何か以前より公平で明朗なかたちになったと考えている責任者かいわいの人がもしいるとしたら、いくら何でもそれはただの自己満足というものである。何かおかしいなとか、こんなはずじゃなかったんだがとか、もっとどうにかしなければ(それも恐いが)とか、せめて感じておられてほしい。しかし、そういう救いがたい自己満足は国でも自治体でもけっこうありそうだから恐いけど。
予算委員会を勤めたことがない私らしく、誰もが一番知りたいだろう特別手当でもらう金額をまだ書いていないが、多分十数万程度だろう。何だめっちゃ少ないやんと言えばそうだが、度重なるとバカにはできないだけでなく、これでも焼け石に水の思いで欲しいのが大学教員の現状でもある。それはまた、あとで書く。