九条の会関係日の丸とテロリズム

1.引き出しの中の日の丸

作家の田辺聖子さんが昔どこかで、「自分が支持政党を応援したら、その支持者が減るのではないかと心配で、そういうことがなかなかできない」ということを書かれていた。作家に限らず有名人が、政治的社会的発言をさける時、何だかえらそうな理由を述べるのが、私は情けなくて嫌いなのだが、田辺さんのこの言葉には深く共感した。
今でこそ、あちこちで政党支持や憲法支持や政府批判や、その他いろんなスピーチをして、いろんな運動の代表や賛同者にも名を連ねているが、若いときや子どものころは、そうやって自分が「これは好き」「これは支持する」と言ったら、それに影響されて支持者やファンが増えるよりも、私への反感や不人気から、嫌いになる人がいるのではないかと思って、決して口にできなかった。そういうことを口にして、自分が嫌われたり村八分にされたりする心配なんかより、その方がずっと恐かったのだ。

実は、ともうさっそく脱線するが、私は同じ理由から、たとえば学生に厳しい同僚の前で「学生の立場を守って」弁護したり、誰かのことを積極的に人前でほめたりすることが、あまりできない。好きな小説、映画、俳優を、他人の前でものすごくほめちぎったりもできない。自分がそうすることによって、厳しい同僚が対抗意識を燃やして、ますます悪役に徹しようとするなど、私がそうして応援することで、かえって反感や嫉妬をかって、私はともかく、評価した相手の敵をふやすことを恐れるからだ。「何々ちゃんを見なさい」と、兄弟姉妹をひきあいに出されて怒られた子どもが、ろくな感情を何々ちゃんに抱かないだろうぐらいのことは誰でも予想するだろうが、それと似た心理は誰にでも、どこにでもある。もちろん四面楚歌の中、孤立して攻撃されている人やものをかばうために声を上げ、身を挺することは絶対にためらわないつもりだが、自分が唯一の弁護者や理解者で庇護者であるという姿勢を過度にアピールすると、そうすることで、守ろうとした相手と周囲を隔てて、ますます窮地に追いこむこともある。

私はどちらかと言えば、学生に厳しい同僚には「あなたは人気があるし、好かれているよ」という情報を流して、その人にも学生の味方になってもらおうとするし、かばいたい人にはむしろ冷たくして周囲の方がその人を守ってくれるようにする。三人グループの他の二人の仲たがいを防ぐために、一方に一方のことをほめまくるのは、悪口を言いまくるのと、あまり変わらないぐらいにまずい。まあ、そこにも、覚悟のぬれぎぬ的な発想は生まれているかもしれない。

なので、そんな私としては、たとえば何かと批判されることの多い立場の指導者や支配者の人が、自分の信念や権威を示すために、いきなり、それまで掲げられてなかった日の丸を、議論や反感が多い中であえて掲揚して、それとセットで君が代もだが、認めない、従わない人を処罰したり、敬礼や斉唱を強制したりする心境が、もう絶望的に殺人的に理解できないのである。うひゃあもう何でそんなと、頭をかかえて悶絶したくなる。

さっきのような例で言うなら、夫婦喧嘩をしているところに乗りこんで行って、そのどっちかを、「あんたの夫はすばらしい。魅力的で非の打ちどころはない。愛してあげなさい、愛さなければならない」と口をきわめて涙ながらに訴えたらどうかしてると思われませんか。そのくらい、狂気の沙汰だと思います。

以前、ときどき授業で学生にそのことを話して、「私が日の丸をそんなに好きなら、嫌いな人に強制なんか決してしないよ。第一もったいないじゃないか。引き出しの中にこっそりしまって、ときどき一人で広げてみて、うっとり見つめて『いい、なあ…』とつぶやいているだろうよ」と言って、笑わせていたものである。でも別に冗談じゃない。真剣にそう思っていた。

2.母の愛した日の丸

私自身の日の丸への感覚は、限りなく微妙である。
正直言って、それほどの反感はない。昔は田舎の私の家では正月にはちゃんと国旗を玄関の外に立てていた。もう今は枯れてしまった、大きな木斛の木のわきで、それが朝日を浴びていた風景が何となく目の底に残る。いつもいい天気で風はなく、日の丸はたらりとたれさがっていた。それは穏やかな平和の象徴に見えた。
あの頃はまだそうやって正月に国旗を飾る家は、そこそこあったと思う。いつの間にかわが家も含めて、ほとんどの家が祝日に国旗を立てなくなったのはなぜだろう。日教組の平和教育が徹底したからだとはとても思えないし、あれだけ露骨に強引に学校や公式の場で日の丸を立てさせようとする人たちは、個人の家庭で国旗掲揚を奨励しようということは、いまのところまだあまり言わないようだ。どうして、ひとりでに私的な場からは日の丸が消え、公的な場では強制されるようになったのか。その流れや因果関係が、そもそも私はよくつかめていない。

私の母は戦争中は普通に軍国少女だったらしいが、戦後は徹底して戦争反対で、誰に頼まれたわけでもないのに、選挙の投票は社会党か共産党にしか多分入れたことはない。勤務評定反対の闘争があって、学校の先生たちがストライキをするのに保護者に理解を求める話し合いの会をしたことがある。生徒だった私はもちろん出席はしなかったが、あとで母から話を聞いた。
普段は生徒に恐がられる厳しい数学の先生が、涙ながらにストライキの必要性を訴えたりしても、保守的な田舎の人たちは、まあその頃は「教師は聖職」という時代だったから、「やっぱりストライキだけはやめてほしい」と誰もが言った。そんな中、「ご婦人の意見も」と発言を求められた母は「あら、私は先生たちよりもっと激しい反対ですよ。先生たちの運動が生ぬるいのがじれったくて、もう自分が赤旗かついでデモの先頭に立とうかと思うぐらいですよ」「十年二十年先の教育をまともにするためだったら、一日二日学校が休みになるぐらい何ですか」と、しれっと言ってのけたらしい。

皆の反応がどうだったかは知らないが、多分あっけにとられて度肝をぬかれて、反論する人はいなかったようだ。女性ではもう一人だけ、お寺の奥さんが参加していて、母の次に意見を聞かれるともじもじしながら「私も息子が学校の先生をしていますから、先生たちの気持ちにどっちかというと近いです」とか答えて、司会をしていた男性は「ええ、それでは今日のところは、男性はストライキに反対、女性は賛成ということでまとめたいと思います」と結論を出したらしい。むちゃくちゃやがな(笑)。
そのことで母が誰かに攻撃されたということもまったくない。だが評判にはなっていたのか、のちに何かの宴会のとき、私の担任の音楽の先生が、母の所にやってきて「あんたはまあ、赤旗持って先頭に立ちたいと言うたそうやなあ」と感服したように話しかけて、母と飲み交わしたらしい。ちなみに母は、一見おとなしそうに見えるが、酒もめちゃくちゃ強かった。

で、そんな母だが、日の丸は好きだった。君が代は陰気でぱっとしないからよくないが、日の丸はあの単純なデザインが実にいいと、ことあるごとにほめていた。そうかと言って別に国旗を立てることに思い入れがある風でもなかったし、右翼や愛国心は大嫌いだった。ちなみに祖父が中国で大きな病院を経営してぜたくな暮らしをしており、そこで生まれて育った母は、小学生の時起こった南京事件で、他の日本人と廊下に整列させられて、中国兵に銃をつきつけられた経験を持つ。「実際に発砲された。威嚇射撃だったらしくて死んだ人はいなかったが、自分はすぐ首をのばして、誰が撃たれたか見ようとしたのを覚えている」「それ以来、何かを恐いと思うことがなくなった」とよく言っていた。「風と共に去りぬ」の中である老婦人が同様の述懐をし、「恐れを知らぬ女には、どこか不自然なところがある。そうならないように気をおつけ」とヒロインに話す場面を私といっしょに読んだとき、母は「そうかねえ」と印象深げに言っていた。母についてはどうせもう今さら遅い話だし、ヒロインのスカーレットも結局恐れを知らぬ女になっちゃたわけだけれども。

その事件の後、着の身着のままで日本に引き上げてきても、母は中国と中国人をずっと好きだった。老人ホームで職員や周囲の人にもよく、「中国の人は皆いい人よ」とくり返していたそうだ。多分テレビで悪口が言われるたびに、そうやって弁明していたのだろう。まだ元気で一人暮らしをしていたころは、テレビで「そこまで言って委員会」を毎回見て、一貫して田嶋洋子さんを応援していた。その番組が大嫌いだった私は、よくも心が折れないものだと母にひそかに感心するヘタレだった。

母の日の丸と君が代の評価に私は特に影響は受けなかったし、これと言って関心がなかった。今よくよく考えて見れば、日の丸どころか君が代だって、あのまるで行進曲にも応援歌にも使えそうにない、歌ってる内に戦闘意欲もやる気も消えて行きそうな、ものがなしげなまだるい旋律は国歌としては珍しく、けっこういいんじゃないか、愛国心に燃える人たちはほんとにあんな歌でいいと思っているのか、いっぺんじっくり聞いてみたいと思ったりする。歌詞はたしかに気になるが、その内に天皇制がなくなれば、別にかまわないんじゃないかと、これまたネトウヨに激怒されそうなことを考えるが、あ、そうか、今の憲法と民主主義を大切にする天皇一家は、天皇制に反対の私が大好きな分、右翼の人は嫌いだろうから、ひょっとしたら激怒しないのか、よくわからないけど。

 

3.なぜ立って、歌ったのか

最初に就職した私立大学は、外国語学校から発展したリベラルな学風で、反戦や人権についての著名な思想家や芸術家も教授陣の中には多かった。教授会その他の運営も民主的で、大学公報の新任者の紹介は若い女性職員でも高名な老教授でもすべて同等に混在して掲載された。
それでも土地柄か長い伝統か、卒業式や入学式には日の丸が掲揚され君が代が斉唱された記憶がおぼろにある。同じ新任の同僚数人が、宴席でそのことに驚きを示し、起立しない者もいて、それも当然のこととして肯定的な雰囲気で話題になったこともあった。
私自身は起立したし歌っていた。そのことに、こだわりやためらいもわずかにあったが、それほど悩んだり迷ったりしたわけではない。

つきつめて考えたわけではないが、自分一人で頭の中で整理した、そうした理由は二つあった。
ひとつは、もし将来、処分を受けることも覚悟で起立や斉唱を拒否しなくてはならなくなった時、自分は拒否できるかということだった。そのように厳しい状況になったときにもそうするという確信と自信がないのなら、今もしないでおこうと考えた。当時、小中高で教師たちが、そういう厳しい選択をせまられる状況はまだなかったと思うので、こんなことを先回りして私が考えていたと知ったら、周囲の誰もが笑ったろう。

だが、古い古い映画「エル・シド」で、広場の中でただ一人王に忠誠を誓うためにひざまずかず立ちつくす主人公などを、すぐ思い浮かべる私は、それこそ拷問や死刑を覚悟で、そうする気がないのだったら、今もしないという選択をしがちだった。たとえば誰かと関係を断つとき、ひそかに、「もし自分が困窮してこの人に何かを依頼しないと生きていけないとか、亡命の時の旅券とか、恐ろしい苦痛をともなう死から愛するものや自分自身を逃すために必要な助命とかを、この人に頼むしかない状況になっても、断固としてこの人にそれを求めないでいられるか、それでもいいのか」と自問して、「よかろう、その覚悟はある」と結論が出ない限りは、「まあやっぱり最低限のつきあいはしとくか」と、結局その人と完全に縁は切らない。こういう私の選択基準がいいか悪いか、それもまだ、つきつめて考えたことはないのだが。

言いかえれば、起立であれ斉唱であれ、王への忠誠の誓いであれ、自分はそれに従うけれど、決していいとは思わない、という立場で批判と抵抗を続けることを私は選びがちである。これが、全体の闘争にとっても私自身にとっても、いい結果を招くかどうか、それも判断は難しい。小説や映画でも、あるいは歴史上の事実でも、こうやって支配者や権力に一応の追従をしながら抵抗を続けることは、今の公明党の場合を見ていても、決して成果をあげるとは限らないし、また、「戦艦バウンティ」の映画であれ、「クオ・ヴァディス」の小説であれ、最初から明確に反旗をひるがえしていた人以上に、中途半端な立場をとっていた者は支配者や権力者から最終的には最も憎まれ、ひどい運命を与えられることだって充分にある。
そういうことをあれこれ考えても、なおやはり、結局はそういうかたちの抵抗と戦いを、私は選んでしまいがちである。

もうひとつは、と言っても結局はじめの理由とつながるのだが、私自身の心の底に、ゆらがない日の丸と君が代への拒否や嫌悪が、どれだけあるかということだった。
これは、あるいは、時代と教育のせいもあるのかもしれない。私は1946年生まれだが、小中高でも平和教育というのはたしかまだなかったし、新聞テレビ週刊誌、書籍や映画などでも、日本が中国で行った残虐な行為についての指摘はまったくといっていいほどなかった。反戦映画や小説は多かったが、それは軍隊の中でいためつけられる兵士や、家族を戦場へ送り出す妻子の嘆きや、戦火や貧窮にあえぐ庶民や、政府に抵抗して弾圧される思想犯を描いて、戦争の悪を訴えるものが中心だった。

私は子どもにしては政治的社会的歴史的関心は高く、いろんな本を読んでいたし、もちろん戦争反対だったが、そういう時の頭の中の悪の存在は、ナチスドイツだけしかなかったし、自分が作品の中で同調し感情移入するのは、フランスをはじめとしたヨーロッパやソ連でのレジスタンスの人たちだった。日本やアジアという視点は完璧なほどぬけ落ちていた。
わが家では複数の新聞と週刊誌をとっていた。その週刊誌のどれかの記事で、村に攻め込んで来た日本軍が残虐の限りをつくしたという多分中国の人の話を読んで、強い印象を受けた記憶がある。たしか日記にも引用した。だが、記憶にある限り、アジアで日本軍が行ったことについて書かれたものを読んだのは、それきりである。

日本の中国での行為を初めて詳細に検証し報道したのは、本田勝一の「中国の旅」(1972)ではなかったか。彼は「殺される側の論理」(1971)で、初めて第二次大戦では正義の側だったアメリカを、アジアの一員としての日本を差別した存在として、ベトナム戦争につながるその意識を徹底的に告発した。原爆投下は誤った指導部に従った日本国民への罰ではなく、アメリカという国のアジア蔑視に基づくものという考えは、それまでの図式を180度転換させたにひとしい。そして本多は、アメリカが日本やベトナムで何をしたかを告発する以上、日本がアジアで何をしたかを凝視することも避けて通れないという観点から「中国の旅」を書いた。

以後、怒涛のごとく、日本がアジアで行った戦争犯罪は注目され報道され、平和教育の場でも「日本がアジアで何をしたか」は重要なテーマとなる。だが、その時期私はもう大学生だった。本多の著作をはじめとした資料や、映画「人間の条件」の圧倒的な映像で、知識としては確実にそれを知っても、幼いころに刻みつけられた自分自身の体験と区別できないほどの読書や映像から得た、肌にしみこむ感覚の中に、アジアにおける「血に染まった日の丸」の意識は充分に埋めこまれてはいない。幼い自分がそれを知ったら、どう感じたかも、今となっては永遠にわからない。

4.あえて、否定的なことばかり

平和教育について、それは正しいし必要だし、おそらく私が把握もしていないところで、大きな成果をあげて来ているだろうということは充分に理解しつつ、ここでは、あえて、そういうものに対して、いつも私が抱く疑問や抵抗感を徹底的にさらしておきたい。

私は専門が江戸文学なので、他の分野での授業や講演をしたことはあまりない。それでも、たまにそういうことをすると、関心を持って下さる方や感銘して下さる方がいる一方、きちんとまじめに平和や人権や民主主義を守る研究や活動をして来た人からは、拒絶反応にも似た激しい抵抗感を示されることがある。

一度授業で「戦争と文学」という講義をしたとき、一人の学生が終始徹底的に内容を否定し批判するレポートを書いた。それは、私が文学には戦争の魅力も描かれていることを紹介したことへの反発で、そのような観点を持ちこむことは許されないという怒りが基本になっていたと思う。また私が「なぜ人を殺してはいけないか」というテーマで授業計画を立てたとき、リベラルな立場で国際的な分野の学問をしている同僚は、そのようなテーマでものを考えること自体に強い抵抗を示し続けた。私が参加し活動している「九条の会」の講演会で私が周囲に逆らって戦争反対を貫く困難さについて文学を通して語ったとき、受講者の一人の熱心な平和運動家は、「何を言いたいのかわからず、ずっといらいらして聞いていた」と発言し、いらだちを隠さず、他の人たちも何となく納得できない顔をしていた。

最初の学生はおそらく、平和授業を熱心に学び自分の信念とした人だろうと私には見当がついた。殺人の可否を問いかける授業について、その同僚と同じように嫌悪や拒否感を持つ人は、いっしょに組合活動もしていて人格も学識も信頼できる他の多くの同僚の中にも多かったろう、いやほとんど全員そうだったのではないかと私は推測できる。「九条の会」の講演についても、私は次第に、ああ、この人たちは、あいまいな話や結論のわからない話は嫌いなのだなあ、自分のしていることに確信を抱いてまた明日から活動をがんばれるように元気が出る、そういう話しか聞きたくないのだろうなあと理解しはじめている。

そこにあるのは、迷いへの拒絶だ。混迷への恐怖だ。敵と味方が明白で、怒りを向ける対象と、その原因が明白で、戦いに使える武器がひとつでもほしい、そんな資料になる話を聞きたいという熱望だ。
その熱意と確信を少しでも薄め冷まさせるものは、すべて拒否され敵視される。

言っておくが、そのような精神も貴重だし必要だ。そういう心と行動によって、正義も平和も守られて来たことを忘れてはならないだろう。
私自身も集会や街頭宣伝では、熱く激しく敵を攻撃し味方を鼓舞し、人々を燃え上がらせることをめざして語ることも多い。おそらくそれだから、まあ何とかかろうじて、私はそういう仲間から信頼されるのだろう。しかし、自分の本当の役割は、そういうことではないだろうと私は常に考えてもいる。それは私が文学に携わる人間だからか、もっと根本的なところでの私自身の性格なのか、それは私にもわからない。

中学か高校のころ、「私にはロシアがある」という新書版の本を読んだことがある。第二次大戦のとき、ドイツがソ連に侵略し、それに対して戦って死んだ兵士や市民の遺書だった。レジスタンスを行って逮捕され拷問にかけられ殺された少女、地平線に見える敵の戦車に応戦しながら煙草の巻紙に走り書きした兵士など、老若男女を問わずあらゆる人々の時には数行の書き置きの与える迫力はすさまじく、そこにあふれる祖国への愛、侵略者への怒りに私は強い感銘を受け、その人たちの一人一人を心から愛した。

それでなお、当時の日記に私は書かずにいられなかった。「この人たちを本当に好きでたまらない。でも、その一方で思わずにはいられない。この人たちは天皇制下の日本や、ヒトラーの支配するナチスドイツに生まれて育ったら、どうだったろう。同じように祖国を愛し、敵と戦って命を捧げたのだろうか。それとも、そうではなかったろうか。私が今、彼らによせる信頼と愛情と共感は、その時にも今と同じだろうか」。
私は、そういう子どもだった。それは家庭環境やDNAの問題というより、ただやたらにたくさんの小説と本を読み、その中の登場人物に心をよりそわせて生きていたからだろう。それ以外の原因を思いつけない。

そして、今思えば、戦後間もない民主主義の華やかな時代と言っても、私の育った田舎では、学校の先生たちでさえ、平和教育どころか、軍隊時代の体験を面白おかしく楽しく語って生徒の人気を集めていた。町内会などの宴席では軍隊帰りのおじさんたちが、中国人を重ねて並ばせてどこまで弾が通るか端から撃って実験したとか、中国人の母子に性行為を強要して遊んだとかいう話を普通に口にしていた。子どもの私はそういう席には出ないから聞かなかったが、母は聞いていて、教えてくれた。のちに、日本は中国で残虐行為をしていないという論調が広まったとき、母はあきれたように「だって皆はそんな話、しょっちゅう話していたよ」とくり返していた。村の男たちは特に異常者でも変質者でもあったのではない。特に自慢して話したのでもない。要するに、それは普通の体験談だった。中国人や朝鮮人への根強い蔑視と同様に、それは村の生活の土壌をなしていたし、学校でさえ、その雰囲気は例外ではなかった。

だからこそ、私は本や新聞や雑誌で読む、周囲の古臭い現実とはかけはなれた平和や民主主義や戦争反対に共感し、あこがれたのだと思う。ちなみに家の中でも、祖父母はしっかり保守派だったから、私と母は少数派の抵抗勢力だった。つまり学校でも地域でも家庭でも、私は多数派や上に立つ者への反感や抵抗として、平和や民主主義を熱烈に愛し求めた。
もし、それが、平和教育として、自分の上に立つ人たちから一方的に教えられ、反論や異論を許されず、そして、その人たちが同時に自分を指導し規制し、時に自分や友人に体罰も含めた処罰も与える存在であったなら、私の思想信条がどうなっていたか、見当はつかない。もしかしたら、学校で教えられない情報、禁じられている本を探して読みふけり、いわゆるネトウヨになった可能性は決して低くはないと思う。

日本のアジアでの戦争犯罪に注目し、日本の戦争責任を教える平和授業と、それを支える日教組をはじめとした先生たちの教育現場について、私が得る情報は、大学以来の親友の中学教師の語る話、教育大学での教え子たちの、教師として就職後の体験談、生徒として授業を受けた体験談、自分自身がいろんな集会や学習会で聞く現場の先生の授業報告、その程度しか窓口はない。
その中で私がずっと抱き続けた、疑問や不安は、たとえば次のようなことだった。

友人や教え子が語る、スカートの丈やその他に関するこまごまとした規制と罰則。体罰も普通に行われる指導の数々。高校のころ、先生方と直接対決はしなかったが、その分いたずらを交えた反抗であらゆる規則を破り続けることを生きがいにしていた私にとって、そのような行為をする教師は「キャッチ22」のヨッサリアンの決意同様、決して信じも愛しもしないし、彼らが口にする思想や理想がどんなに正しく美しくても決して認めはしないだろうと、聞くたびにほぼ確信した。

私の研究室で人生やその他を語り、深く信頼していた学生が、教師になって組合に入らなかったり、強く反発する場合がしばしばあったこと。どう考えても組合活動に最もふさわしい、孤立も弾圧も決して恐れない人柄のはずなのに、彼らが権威や圧力への反抗する対象として、政府や校長以前に組合を選んでいること。それは友人が時に語る、「組合に入っていないと、とてもやっていけない」というような、ごく自然な発言とも重なって、ナチスドイツや天皇制日本を批判し攻撃するはずの存在が、それと同様の雰囲気で職場を支配し、人々を束縛し、逆らう人々を許さない者になっているのではないかという疑いを生んだ。

同様に深い思索や広い視野を持つ、知的にも人間的にもすぐれた学生が、学校で受けた平和教育に好感を持っておらず、「日本が悪いとくり返されると、本当にいやな思いがしたし救いがなかった」というような、ネトウヨと言われる人たちの主張とまったく同じ感想を持っていたこと。
一方で教師をしている教え子から、平和教育のよい教材はないかと相談されることも時々あり、あまりというよりまるで役に立たないまま、相談にのったりするのだが、その教え子が悪いわけでは決して絶対にないのだが、「何かいい材料はないか」と聞いて探している様子が、ものすごくその場しのぎの場当たり的なものにしか見えないこと。
私などにまで聞いてくることからも明らかなように、そういった教え子は皆優秀で誠実で熱心である。それでも、その姿勢にはどういうか、厚みもなければ重みもない。そもそも教師とはそういうものかもしれないが、「こういうのに役立つ資料は」と結論から先に決めて効果あるものを探す程度で、日本兵の残虐や戦争の悲惨を伝えられるものだろうか。

資料や授業内容について言うなら、作家の住井すゑ氏が「戦争は恐い、と教えるんじゃだめなんです。戦争は悪い、と教えなくてはなりません」と言うように、私は平和教育をするなら欠かせないのは、戦争犯罪人の指摘と告発であり、それは天皇制と私たち一般の国民の責任を問うことだと考える。
天皇制を批判できないのは、いろいろな力関係もある現実的判断だろうが、そこを明確にしない限り、戦争の実態も本質もわからない。一般庶民の責任については、それにふれた私の講演には拒絶反応が強かったし、そこを見事に描いた小説、中島京子の「小さいおうち」は、山田太一監督の映画化の際、成功したと言えなかった。庶民は悪くない、天皇には触れない、かくして平和教育の戦争反対は、誰もがいやだったのに戦争は起こったというふしぎな話にしかならない。そしてしばしば、戦争責任はとりようもない子どもを描いて戦争の無惨さを訴える。外国映画「ソフィーの選択」「生きるために」などが、最大の被害者である主人公たちが犯した戦争時の罪を容赦なく告発するのと、それはあまりに大きな差である。(つづく)

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