九条の会関係九条の会9月定例会資料
(ご自由にお使い下さい。一部でも全部でも。)
9月19日の朝、パソコンを開いて戦争法案成立を知ったとき、最初に思ったのは自分でも驚いたことに「ああ、よかった」でした。
もちろん、法案が成立したからではありません(笑)。
自分がこの間、激しく広がる抗議行動と、日増しに強くなる警察の規制の中で、ひょっとして死者が出る不測の事態が起こりはしないか、国会内の与野党の攻防の中で、よれよれの首相も含めて、極限の疲労の中で誰かが倒れて死ぬのではないかと、ずっとどこかで心配していたことに、初めて気づきました。
若者たちをはじめ、抗議行動をする人たちの、冷静さを失わない力強さとあたたかさを信じていました。しかし、これだけ大規模な運動の中で、それこそ過激派の人たちもまぎれこむのでは、本当にいつ何が起こるかわからない。
戦争法案を成立させない戦いに、敵も味方も、一人の死者も出してはならない、「死」という要素をまぜてはいけない、ずっとそう祈って来ました。
私の心配は杞憂でした。国会前の若者たちは、激しい規制にあいながら、生まれて初めての国家権力の力と対峙しながら決して警察官個人への優しい目とあたたかい心を忘れなかった。「敵は彼らではない」「親切に誘導してくれていたことを忘れない」彼らはそう書きこみつづけました。
暴力的に行動しようとした人たちは、集会の参加者によって、抑えられ、排除されました。彼らが人々の怒りの受け皿になって中心的存在になることは、結局一度もありませんでした。
かなり緊迫した状況でも、ベビーカーを押して参加した母親たち、杖をついてともに歩いた高齢者たち、このような人々の存在が、暴力的に運動が加速することの、大きな歯止めにもなったのでしょう。
60年安保のとき、私は高校生でした。樺美智子さんの死によって、激しく燃え上がった怒りの中で運動が広がって行きましたが、そのことを歓迎しながらも、私はいつも、心のどこかで「人が死なないと皆は動かないのか」という虚しさや悲しみをかみしめていました。
今回のこの大規模な反対運動は、あれだけの人が参加しながら、まったく血で汚されることなく、ここまで歩みを進めたのです。死者や犠牲者という、最高最強のカードを一枚も使うことなく、ここまで広がり高まって次の行動を呼び起こそうとしているのです。
このことはどんなに評価しても、しすぎることなどありません。それはまた、「暴力や死を使わなくても大切なものは守って行ける」という、強力なメッセージでもあります。
これが、あたりまえのように実現されたことの陰に、どれほどの努力と機転と信念が存在していたことか。そのことだけでも私はこの戦いを勝利と呼びたい。
これから更に、「この法案で死ぬ人は一人も作らない」歴史を継続させなければなりません。
法案が成立しても、具体的に自衛隊を海外派兵するには、さらに衆参両院での可決が必要です。
また、【憲法第98条】には、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」という条文があり、違憲法案は、可決されても無効です。
このことと、採決の手続きのおかしさも含めて、今後全国では大規模な「違憲訴訟」の裁判が起こされます。すでに9月16日、三重県松阪市の山中光茂市長が、国を相手どって、参院での議決や法律公布のための閣議決定の差し止めなどを求めて東京地裁に提訴しました。憲法学者の小林節さんが中心になった、より大規模な違憲訴訟も計画されています。
いったん成立した法案でも、このようにして永遠に使えなくすることは破防法などの例もあるように、十分可能です。
あれだけ進められていた辺野古への基地移設も、沖縄県民が選んだ翁長新知事によって次々に後退させられています。私たちの意志を選挙で示せば状況は想像できないほど変化します。
国会の前に集まった若者たちのコールは、法案成立直後に「選挙に行こう」になりました。すでにネットを通して全国の市町村の選挙の投票予定が広がりつつあります。「法案に賛成した議員は落とせ」という訴えは、事前運動にならず選挙違反になりません。
また共産党は法案成立の直後に、他党に小選挙区制も含めた全面的な選挙協力を呼びかけました。沖縄と同様にこれが実現すれば、小選挙区制の死票は減り、結果は画期的に変わります。
今も全国で抗議行動やデモは続いています。それに加えて今後必要になる、誰でもできる意思表示は、すべての選挙で法案に反対した議員を支持し、賛成した議員を落とすことです。
ちなみに、この宗像の市議会では「戦争法案は慎重な審議を望む」という決議に賛成した議員は福岡生活者ネットの1名と日本共産党の3名だけでした。この状況を私たちはまず知らなければなりません。
失望している場合ではありません。するべきことは多すぎます。