九条の会関係どちらを向いて歩むのか

以前、テレビの番組で櫻井よしこさんが、「湾岸戦争のとき、自衛隊は憲法九条で戦闘行為が禁じられていたから、事故を起こしていた多国籍軍のトラックから負傷者を救出してもいいのか、電話で本部に問い合わせたりしていて、他国の軍隊からあきれられたんですよ!」と強調しておられました。そこにいた他の出演者も特に反論はしていませんでした。平和憲法や九条があるばかりに、戦地で人道的な行為も思うようにできないと言わんばかりの雰囲気でした。

しかし、「ホテル・ルワンダ」や「ノーマンズ・ランド」などの、現代の戦争の現実を描く、すぐれた映画をごらんになれば、国連軍や多国籍軍が「規則だから」「条約だから」と、民間人や負傷兵を見捨ててしまわなければならない場面がいくらでも登場します。
戦場で、このような、現実を無視した悲惨で滑稽なことが起こるのは、平和憲法や九条とは何の関係もありません。

戦争は、もともと残酷な殺し合いです。人間の文明が進むにつれて、赤十字やジュネーブ条約など、民間人は殺さない、捕虜は虐待しないといったさまざまな約束事ができました。しかしそれは、人が人と殺し合うという最も野蛮な行為の中で、人間らしさを保つためのルールを守ろうとする、矛盾であり偽善でもあります。「規則を守って殺し合いをしよう」という近代の戦争は、そういう、やりきれない滑稽な場面も生むのです。

そういう、矛盾に満ちた滑稽さをなくそうと思うなら、私たちが選ぶ道はただ二つしかありません。一つは「戦争はしょせん殺し合いだから」と、あらゆるルールをとっぱらい、レイプも虐殺も核の使用もすべて許して徹底的な殺戮をする原始の昔に戻ること。現代の科学のもとでこれをやったら、おそらく人類は滅亡するでしょう。
もう一つは、滑稽でじれったくても、少しでもより人道的な、規則を守った戦争を行ないつづけて、次第に規則を厳しくして行き、すべての戦争そのものをできないようにしてしまうこと。私たち人間が生き残ろうと思うなら、どんなに困難でも道はこれしかありません。
私たちは、どちらに向かって歩み続けるのか。答えはすでに明らかだし、平和憲法と憲法九条が、その歩みを助けるものであることも、あまりにも明らかな現実ではないでしょうか。

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カツジ猫