九条の会関係日の丸とテロリズム(3)
3.なぜ立って、歌ったのか
最初に就職した私立大学は、外国語学校から発展したリベラルな学風で、反戦や人権についての著名な思想家や芸術家も教授陣の中には多かった。教授会その他の運営も民主的で、大学公報の新任者の紹介は若い女性職員でも高名な老教授でもすべて同等に混在して掲載された。
それでも土地柄か長い伝統か、卒業式や入学式には日の丸が掲揚され君が代が斉唱された記憶がおぼろにある。同じ新任の同僚数人が、宴席でそのことに驚きを示し、起立しない者もいて、それも当然のこととして肯定的な雰囲気で話題になったこともあった。
私自身は起立したし歌っていた。そのことに、こだわりやためらいもわずかにあったが、それほど悩んだり迷ったりしたわけではない。
つきつめて考えたわけではないが、自分一人で頭の中で整理した、そうした理由は二つあった。
ひとつは、もし将来、処分を受けることも覚悟で起立や斉唱を拒否しなくてはならなくなった時、自分は拒否できるかということだった。そのように厳しい状況になったときにもそうするという確信と自信がないのなら、今もしないでおこうと考えた。当時、小中高で教師たちが、そういう厳しい選択をせまられる状況はまだなかったと思うので、こんなことを先回りして私が考えていたと知ったら、周囲の誰もが笑ったろう。
だが、古い古い映画「エル・シド」で、広場の中でただ一人王に忠誠を誓うためにひざまずかず立ちつくす主人公などを、すぐ思い浮かべる私は、それこそ拷問や死刑を覚悟で、そうする気がないのだったら、今もしないという選択をしがちだった。たとえば誰かと関係を断つとき、ひそかに、「もし自分が困窮してこの人に何かを依頼しないと生きていけないとか、亡命の時の旅券とか、恐ろしい苦痛をともなう死から愛するものや自分自身を逃すために必要な助命とかを、この人に頼むしかない状況になっても、断固としてこの人にそれを求めないでいられるか、それでもいいのか」と自問して、「よかろう、その覚悟はある」と結論が出ない限りは、「まあやっぱり最低限のつきあいはしとくか」と、結局その人と完全に縁は切らない。こういう私の選択基準がいいか悪いか、それもまだ、つきつめて考えたことはないのだが。
言いかえれば、起立であれ斉唱であれ、王への忠誠の誓いであれ、自分はそれに従うけれど、決していいとは思わない、という立場で批判と抵抗を続けることを私は選びがちである。これが、全体の闘争にとっても私自身にとっても、いい結果を招くかどうか、それも判断は難しい。小説や映画でも、あるいは歴史上の事実でも、こうやって支配者や権力に一応の追従をしながら抵抗を続けることは、今の公明党の場合を見ていても、決して成果をあげるとは限らないし、また、「戦艦バウンティ」の映画であれ、「クオ・ヴァディス」の小説であれ、最初から明確に反旗をひるがえしていた人以上に、中途半端な立場をとっていた者は支配者や権力者から最終的には最も憎まれ、ひどい運命を与えられることだって充分にある。
そういうことをあれこれ考えても、なおやはり、結局はそういうかたちの抵抗と戦いを、私は選んでしまいがちである。
もうひとつは、と言っても結局はじめの理由とつながるのだが、私自身の心の底に、ゆらがない日の丸と君が代への拒否や嫌悪が、どれだけあるかということだった。
これは、あるいは、時代と教育のせいもあるのかもしれない。私は1946年生まれだが、小中高でも平和教育というのはたしかまだなかったし、新聞テレビ週刊誌、書籍や映画などでも、日本が中国で行った残虐な行為についての指摘はまったくといっていいほどなかった。反戦映画や小説は多かったが、それは軍隊の中でいためつけられる兵士や、家族を戦場へ送り出す妻子の嘆きや、戦火や貧窮にあえぐ庶民や、政府に抵抗して弾圧される思想犯を描いて、戦争の悪を訴えるものが中心だった。
私は子どもにしては政治的社会的歴史的関心は高く、いろんな本を読んでいたし、もちろん戦争反対だったが、そういう時の頭の中の悪の存在は、ナチスドイツだけしかなかったし、自分が作品の中で同調し感情移入するのは、フランスをはじめとしたヨーロッパやソ連でのレジスタンスの人たちだった。日本やアジアという視点は完璧なほどぬけ落ちていた。
わが家では複数の新聞と週刊誌をとっていた。その週刊誌のどれかの記事で、村に攻め込んで来た日本軍が残虐の限りをつくしたという多分中国の人の話を読んで、強い印象を受けた記憶がある。たしか日記にも引用した。だが、記憶にある限り、アジアで日本軍が行ったことについて書かれたものを読んだのは、それきりである。
日本の中国での行為を初めて詳細に検証し報道したのは、本田勝一の「中国の旅」(1972)ではなかったか。彼は「殺される側の論理」(1971)で、初めて第二次大戦では正義の側だったアメリカを、アジアの一員としての日本を差別した存在として、ベトナム戦争につながるその意識を徹底的に告発した。原爆投下は誤った指導部に従った日本国民への罰ではなく、アメリカという国のアジア蔑視に基づくものという考えは、それまでの図式を180度転換させたにひとしい。そして本多は、アメリカが日本やベトナムで何をしたかを告発する以上、日本がアジアで何をしたかを凝視することも避けて通れないという観点から「中国の旅」を書いた。
以後、怒涛のごとく、日本がアジアで行った戦争犯罪は注目され報道され、平和教育の場でも「日本がアジアで何をしたか」は重要なテーマとなる。だが、その時期私はもう大学生だった。本多の著作をはじめとした資料や、映画「人間の条件」の圧倒的な映像で、知識としては確実にそれを知っても、幼いころに刻みつけられた自分自身の体験と区別できないほどの読書や映像から得た、肌にしみこむ感覚の中に、アジアにおける「血に染まった日の丸」の意識は充分に埋めこまれてはいない。幼い自分がそれを知ったら、どう感じたかも、今となっては永遠にわからない。(つづく)