九条の会関係「平和と民主主義を考えるつどい」(5月3131日)の「憲法カフェ」での私の発言(長いなー)

(これは発言の後半です。前半はまだ文字にできていないので、あとで補充します。)

安倍内閣の支持率がそれでも高いのは、「他に人がいない」「民主党の政治がひどすぎた」「景気はよくなっている」などと言われるからでしょう。
私が幼いとき、祖父と近所の共産党の人が「しかし、あの首相がだめと言っても他に人がいないだろう」「それは、いつも言われることで、実際には誰かがちゃんとやるんですよ」と話していたのを思い出します。「他に誰もいない」という理由は、かように昔からいつも言われていて、ひどい現状を我慢する怠惰と臆病の言いわけでしかありません。(ちなみに今ネットでは、「もう首相は安倍以外なら誰でもいいような気がしてきた。おれの近所のおじちゃんでも、まだましなような気がしてきた」という書きこみもあります。同感です。)

民主党の政治へのトラウマは多分に作られたもので、実際に何がそんなにひどかったかは、きちんと検証されていません。自民党時代に作られた原発の事故の処理に多くの力を割かれたことだけでも、私は民主党政権にはハンディをつけてやるべきだと思っています。
そういう点で午前中の鳩山さんに対する沖縄の人たちの気持ちがそんなに悪くないという話には、ほっとしました。「まあ沖縄の人がやさしいというのもありますが」と、講師は言っておられましたが、でも菅首相の原発対応、鳩山さんの普天間対応も、いろいろ失敗があったにしても、それは悪意でもごまかしでもなく、今の安倍さんのしていることと比べたら、ましなんてものではありません。

ただ、国民は自民党の金権政治に嫌気がさして「ぶっつぶす」と言った小泉氏に期待し、ついで民主党に期待し、次に維新、未来などの第三極と言われた勢力に期待し、そのたびに裏切られて来ました。何をしても今よりよくはならないという教訓を刷り込まれ、無気力になっています。
しかし、そこにはまた、「すぐれた指導者や党を選んで全権をゆだねれば、あとは放っておいてもやってくれる。戦争は自衛隊に、原発は現場の労働者にまかせておけば、あとは何もしなくていい」という過度で、まちがった期待があることも否めません。権力者は、たとえ自分たちが選んだ人でも監視しなければならないし、専門家にまかせるのは、庭木の剪定やシロアリ駆除、家電の修理などならともかく、国の将来や安全を丸投げにして楽をしようなどと思うのは、保険料や年金の見直しをしないよりもずっとずっと危険です。

民主主義の基本は、権力者や専門家にまかせず、素人がわかる説明を常にもとめて、めんどうでじれったい話し合いで解決をはかることです。

忙しくて疲れているのもわかりますが、老後の生活設計をして保険をかけたり貯蓄をしたり株を買ったりするよりは、そういうことを考えて話し合う時間と体力を確保しておく方が、よっぽど重要な投資です。

景気回復についてですが、これは当初の橋下知事が弱者や文化を徹底的に切り捨てて赤字を解消したことが、高く評価されたと同じで、どのようにして景気を回復させるかが問題であって、回復すればいいというものではありません。橋下さんが赤字をなくしたと評価されていたころ、宗像市の議員の一人が「赤字なんて、なくすことだけめざすなら、誰でもどこでも今すぐにできますよ」と私に言いました。まったくその通りです。

株価の上昇は首相がそれだけが自分の人気を維持しているととらえて、年金資金さえも株の売買に投入する危険な賭けにまで出て維持していることによるもので、決して健全な景気回復ではありません。それが外国の投資家と国内の一部の株主をもうけさせているだけで、一般の庶民には何の恩恵もないことは、すでに指摘されています。私の知り合いの知り合いのそのまた知り合いは、ひと月に株で6000万もうけたということですが、その人本人も含めてそれがどれだけ国や社会や人々を豊かにし幸福にしたのか疑問です。結局は、それは格差と競争社会を増大させ、弱者を無視することで強者の精神もまた貧困にし、病ませるという、まったく救いがたいものです。

私は今、本人も含めてと言いました。そもそも、景気がよければ金があれば人は幸福なのか。そう言うと、「金がない苦しさがわかるか」と言われるでしょうが、今の景気回復は、そのような、まさに100円10円の金がなくて苦しんでいる人たちのことをまったく考えたものではないことは、多分誰もが認めるでしょう。まっ先に救わなければならない弱い人々を徹底的に無視しているのが、今の政治の基本姿勢です。

最近「狭小住宅」(新庄耕 集英社文庫)という小説を読みました。特にブラック企業を告発している小説ではないのに、そこに普通に描かれている若いサラリーマンたちの、日々のノルマにあえぎ、毎日罵倒される職場の様子は恐ろしいものでした。その一方、「僕が旅に出る理由」(日本ドリームプロジェクト刊)という、日本の若者たちの外国旅行や滞在の体験をまとめた本の中で、ギリシャに旅行し滞在して働いた若者は、経済破綻している国なのに、人々は陽気でのんびり生活を楽しみ、「日本では仕事のあとのビールはうまい、と皆が言う」と話すと、彼らは声をそろえて「仕事をしなくてもビールはうまい!」と笑ったと書いていました。どちらかを選ぶしかないのなら、私たちはどちらを選ぶべきなのでしょうか。答えは明らかな気がします。

本当は震災と原発事故を機に私たちは、豊かさや便利さについて考え、今後の地球と世界と日本の未来を考えて、これからの生き方を決めるべきでした。それを考えさせようとしない人たちの抵抗が、それを充分にさせないままにしています。そういう人々を支える精神が、どれだけ貧困で救いがないかは、毎日新聞の特集ワイドで、原発に反対する城南信金の吉原毅会長が紹介した、ある官僚の発言が鮮やかに示しています。(←これについては、書棚の「映画『放射能廃棄物』感想」を、あわせてぜひお読み下さいませ。最後の(6)(7)だけでもいいですから。私はこの映画を見ていたから、この官僚の発言にもあまりショックは受けないですんだのですが。ほんとに責任者や上に立つ人っちゃ、こんな程度のことしか考えてないんだよねー。)

「1年ほど前のこと。原発推進派のある官僚と話した。『使用済み核燃料は何万年も保管せねばならず、将来へのツケが大きすぎる』と問いただしたところ、次の言葉が返ってきた。『いつまで生きるつもりですか? あなたも10年、20年もしたら死ぬでしょう。何万年というそんな先のことを心配してどうするんです?』。国の行政を担う官僚の無責任さに仰天した。」

しかし、未来の人々、戦争地域の人々、自衛隊員、原発作業員、そのような、顔を知らない人々の苦しみはどうなってもいいと感じる心で作られる政策や法律や憲法は、決して私たち自身も幸福にはしません。地獄と極楽のちがいは、長い箸を使って食べにくがるか、たがいに食べさせ合うかの差だというのは、お寺でよく聞く法話ですが、他者や弱者を思いやるのは、結局は自分を幸福にするのです。

貧しい人を幸福にしない、困った人を救わない、景気回復などは景気回復ではありません。金持ちや豊かな人がもうければ、そのお余りがしたたって、貧しい人も救われるという、その名も「トリクルダウン」ということばが、内容も語呂もいやしくて私は大嫌いなのですが、それさえも首相は最近「トリクルダウンなどと言ったことはない」と否定しています。ここまであきらめさせられて、何を今の政府の景気回復に期待するのでしょうか。くりかえしますが、貧しい人、弱い人をふみにじり、無視し、忘れて、幸福になり豊かになるということは、人の不幸に鈍感で無神経な人間になれということで、人間の精神をむしばみ、国民の質をどんどん低下させます。

そんな人間のうようよいる国で、いじめをなくせの子どもをふやせの自然を守れの国を愛せの言ったってですねえ。

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カツジ猫