九条の会関係かつて、日本は中国で何をしたのか

「むなかた九条の会」が、2006年1月28日に赤間西コミュニティセンターで行った近現代史講座第一回「かつて、日本は中国で何をしたのか」は、47名の参加者で会場がいっぱいになり、用意した椅子が足りなくなるほどでした。
講師の岩佐英樹先生(福岡日中文化センター「中国近現代史」講師)は終始落ち着いて穏やかに、わかりやすく話され、資料に基づいた学問的な話なのに、さまざまな数字や記録の向こうに過去に生きていた人たちの姿が、ひとりでに浮かび上がってくるようでした。
以下は、板坂がまとめた文章を、聞き間違いなどないかどうか、先生にチェックしていただいたものです。

―かつて、日本は中国で何をしたか―

去年八月まで北京にいたのですが、帰国して日本で反中感情が広がっているのに驚きました。私のいる日中友好協会にも、中国に旅行するのだが鳥インフルエンザと、日本人だからと言って襲われるのとが恐い、大丈夫だろうかと問い合わせの電話がかかってきます。私の兄も、中国に行くことになって心配していましたが、何事もなく、帰国してからは日本のマスコミの報道のし方を批判していました。

私の体験でも、中国国内を旅行して日本人だからと罵声を浴びせられたことはありません。中国の人はとても親切で、それも個人としても集団としても親切です。バスに忘れ物をすると、「忘れているよ!」と皆が声をあげて教えてくれたりします。

日本のマスコミが中国が危険だと宣伝するのは、政府が憲法九条を変えたいために、広めているひとつではないかと私は考えています。
去年の八月十五日のテレビで評論家の櫻井よしこ氏が「中国は反日教育をしている」と非難していました。中国の教科書は日本の侵略のことを書いていますが、それは事実だからです。テレビドラマでも日本軍の悪い行いをよく描いていますが、そういうことを描くからと言って反日とは言えません。

日中十五年戦争は、実際には「日本の十五年侵略戦争」と呼ぶべきでしょう。南京大虐殺の規模や数が問題にされていますが、なかったということはあり得ない。虐殺記念館に行くと、埋められた白骨がルイルイと折り重なったまま展示されています。三十万人も殺されてはいないという人もいますが、数の問題ではありません。おびただしい数の中国人を殺したという事実です。

日本軍は戦法は三光作戦と呼ばれた、すなわち「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」。食料現地調達。人体実験を行った731部隊。指揮官だった石井氏の日記が出てきています。彼は当時得た生体データをアメリカに渡して死刑を免れたと言います。また日本軍が中国各地に捨てて行った毒ガスが今になって、容器が腐ってガスが噴き出してきたりしています。こうした、人道にもとる戦争を日本軍は中国各地でしていたのです。

今日お話する強制連行の話です。1940年代に入ると男を次々と兵隊にとっていったので、国内では労働力が不足しました。最初は朝鮮人を連れてきていましたが、足りなくなって中国からも連れてくるようになりました。
はたして「強制だったのか」と問題になりますが、普通に考えても敵国に行って働きたがるものはいません。それで、「うさぎ狩り」と言って、日本軍が村を囲んで男を集めてトラックに放り込む、また、農作業をしている人に銃をつきつけて連れてくるというようなことをしました。町ではこういう乱暴なことはできないので、農村でやることが多かった。私が調査に関わった強制連行の例では珍しく都会で、上海の人でした。

私が調べたのは、宇美町にあった勝田鉱業所です。352人の中国人が連行され、1年で25%が死にました。これは全国の135事業所中28番目です。上位は概ね北の炭鉱です。これはわかります。食べ物がなく体力が減って、寒さで死ぬのです。
しかし宇美はむしろ暖かい九州です。なぜ、勝田鉱業所が多くの死者を出したのか?これが最初の疑問でした。

実態を調べようとしても、資料がほとんどありません。私たちが調査のもとにしている資料は日本政府が作った資料です。
1645年の8月15日の敗戦のあと、戦勝国の追及を恐れた政府は翌年の1月、全国的に調査を行い、全国135事業所に調査表を配って回答させました。中国人の労働者がどうして、どうなったかをです。政府はこれをまとめ、アメリカやGHQが追及してきたら、この調査の結果をを報告することで逃げようと思っていました。

しかし実際にはGHQからもどこからも追及はなかった。中国革命が起こって、それどころではなくなったからです。この報告書は使われなかった。それではどうなったのか、ずっとわからなかった。50部くらい作ったと言われます。政府は「全部焼いた」とか「捨てた」とか言っていました。原版は薄っぺらなわら半紙で、ガリ版で刷られていました。
ところが突然、1993年、華僑総会が持っていることを公表し、大きな問題になりました。すると日本政府も「持っていた」と言って同じものを出してきました。三菱勝田関係のものは600枚あります。これは多い方で、もっと薄いところもあります。
多いのは、それだけ多く言いわけをしなければならなかったのではないかと私は思っています。これを読むと「来た中国人のほとんどが病気であった」として、いちいち病名までつけている。
この報告書が世に出た経緯は1993年NHK発行の「幻の外務省報告書」にまとめられています。

私は宇美商業高校の教師でしたが、1990年から生徒たちといっしょに聞きとり調査をはじめました。
報告書には中国人労働者の正確な住所はありません。せいぜい省までです。日本だと県や郡なみの地域だけが記されています。

私の調査対象の上海の被害者ですが、上海は今でも大変華やかな都会です。戦前もそうでした。だから農村でやったような、強引な方法では強制連行できません。
ではどうしたかと言うと、被害者たちによると、次のようです。町に広告がいっぱいはってあったそうです。喫茶店にも電柱にもいたるところに看板が出ていて、べらぼうな好条件がうたってあったそうです。「1日50円、行く前に900円、着いたら900円、作業は台湾で。」と書かれていた。当時の日本の公務員の初任給が毎月60円から80円ですから、これは大変な好条件です。だから応募する人がいます。応募して何かおかしいと思って帰ろうとすると、サクラがいて、「こんないい仕事はめったにない」とか言って、とにかく「契約に行きましょう」とトラックに乗せる。
トラックがいっぱいになったら出発。元英米系の煙草工場の倉庫などにトラックは入って行って、そのまま扉が閉まって帰れない。そして倉庫に人数が満杯になると港に連れて行かれて船に乗せられて、着いたところは日本だった。

途中で行く先が台湾ではないと気づいて、絶望して海に飛び込む人もいたそうです。また、体の具合が悪くなった人を海に放り込んだりもした。着いたのは門司でした。日本であることは、その時わかったそうです。

「報告書」では、「中国人は日鮮人以上に大事にした」「食事には気を使い、牛を密殺して食べさせた」とあります。
しかし、私が17人の上海の被害者の中国人に聞いたのでは、「食物は満足なものはなかった、朝はふすまを丸めたにぎりめしが1つ、昼も夜も同じ」という状態でした。また会社は「8時間労働で、休日も与えた」と書いていますが、彼らは「12時間労働で、次の組が入ってきて交代するまで働かされた、休日は1日もなかった」と言いました。

彼ら中国人被害者の話はほとんど一致しています。さらに、反抗すると殴る蹴るだった、「バカヤロー」「チャンコロ」といつもどなられたそうです。彼らはこうした日本語を今でも覚えています。
着物はドンゴロスのような生地のものを来た時にもらっただけで、それに番号がついていて、いつもその番号で呼ばれた。返事をしないと殴られたから、今でも彼らはその自分の番号をよく覚えています。1944年9月に連れてこられて、ずっとその服だけを着ていたから、すりきれてぼろぼろになり、番号も読めなくなるほどだったそうです。

彼らのこのような状況は、日本人も当然見ています。しかし日本人の証言はなかなかとれません。話すと約束していた人が次の日に断ってきたりします。(後の質問の部分も参照して下さい・・板坂記)

彼らの住む建物はバラック建ての粗悪なもので、回りにはぶあつい板の塀があり、外部との交流はできませんでした。塀の上に鉄条網があって、電流が通っていると聞かされていました。病気の治療もしてくれなかったそうです。

問題の「25%もなぜ死んだのか」ということですが、結論的に言えば会社としては「死んでもいい」「また連れてくればいい」という姿勢だったからだと思います。被害者たちは「食べさせなければ死ぬのに、腹が減っては仕事もできないのに」と、とても信じられなかったと言っていました。

反抗する者がいたら殺したりもしました。通訳をしていたヨウさんという中国人がいました。この人は母親が日本人で、父親は華僑でした。だから日本語ができたのです。上海にたまたま帰国している時に連行されたのです。30代の人でした。この人は「食料が足りない」と中国人の声を代表して抗議しました。すると、そのあと呼び出しをうけ、そのまま帰ってきませんでした。
仲間の様子を見かねて「休ませてやってくれ」と言った人もそれきりいなくなりました。
こういう人たちを、どこかに放したとは考えられません。殺されたのだと思います。
最初の反抗として、炭坑から逃亡した人がいたのですが、つかまって連れ戻されました。その中の二人を皆の前で「鉄のひも」(と中国人は表現していた)でなぐり殺しました。これはたくさんの中国人が証言しています。

このへんの炭坑には独特のことばがあります。「アッセイヤマ」というのもそのひとつです。「アッセイヤマ」とはドレイ炭坑のことを言います。
大谷鉱は「アッセイヤマ」の一つでした。8月15日に戦争が終わって23日に「中国人を働かせるな」という指示が出るのですが、大谷鉱は、その後もこき使っています。記録を見ると日当が9月30日まで出ていて、休業手当はそれ以後になっています。つまり、9月30日まで働かせつづけたということです。
大谷鉱の中国人たちは、日本が負けたということを、ずっと知りませんでした。15日以降には朝鮮人がいなくなったそうです。10月6日、日本が敗れたことがわかって、暴動が起きました。日本人の手先だった中国人や炭坑のボスをなぐって脱走し、皆で博多に向いました。そこまで行けばアメリカがいると思ったそうです。セキさんという人が英語ができて、皆をアメリカ軍のキャンプに連れて行って、アメリカのトラックで会社に帰り、会社と交渉をしたそうです。

今も日本全国16ヶ所の裁判所で、こうしたドレイ労働に対して賠償と謝罪を要求して裁判を起こしていますが、会社も日本政府も拒否しています。戦争中のことは国に責任はないとか、時効が成立しているとかいう理由に加えて最近では「自虐史観、東京裁判史観は拒否する」という攻撃もしてきます。
たしかに日中平和条約で賠償は放棄していますが、それは個人の問題とは別だというのが中国政府の見解です。私たちも国と国の関係と個人は別だと思います。

日本とちがってドイツ政府や企業は賠償金を支払い、当時の資料を開示しています。ドイツ企業は「かくす方が会社のイメージをそこなう」と言っています。事実関係をかくす日本の企業と大変なちがいです。
小泉首相は、靖国神社について、言っているのは中国と韓国だけだと言いますが、他のアジアの国が日本に支配されたのはだいたい1941年以降で、時期も中国・韓国に比べれば短い。この二国が特にそれを言うのは、それだけの理由があるのです。
他のアジアの国も日本の侵略を許しているわけではありません。日本の侵略はアジアの多くの国々で近代史の重要な学習課題です。

時間もなくなったので、最後に一通の手紙を紹介します。この手紙を書いたのは、死亡した中国人の御子息です。この人のお父さんが突然いなくなって、家族はずっとお父さんがどうなったのかわからないまま待ちつづけた。お母さんは貧しい中、年とった親と子どもたちの面倒を女手ひとつでみてきて、死ぬような苦しみをしたと書いてあります。
そのお母さんは九十三歳で存命しておられました。五十年余、消えてしまった夫の消息を待ちつづけておられたのです。どうして父が日本の九州の炭坑に行ったのか、どんな風に死んだのか、どんなことでもわかったら教えて下さいと手紙にはあります。私と生徒たちは絶句しました。

その後私は中国へ行き、家族にお会いしました。そしてまた一つ衝撃を受けました。この方は、夫を待ちつづけていたのではなく、突然消えてしまって何の連絡もないから、きっと他の女と家庭を持って自分たちを捨てたのにちがいないと思い、苦しい生活の中、ずっと夫を恨んでいたというのです。またまたショックを受けました。御子息の覚文明さんは言いました。「恨むべきは父ではなかった。日本軍国主義こそ恨むべきであった」

この後、むなかた九条の会の菰口代表から、岩佐先生へのお礼とともに、
「日本は拉致問題で他国を責めてばかりはいられない。小泉首相はよく中国の言葉を引用するが、決して引用されないのは『人の痛みをわがこととする』という一句だ」
とのあいさつがあって、ひきつづき会場の皆さんからも質問や発言がありました。

Aさん「会社は、中国人を朝鮮人より大事にしたと書いているそうだが、その理由は何か書いてあるのか。また、当時の目撃者がなかなか話してくれない理由は何か」

岩佐先生「その理由は報告書にはなかった。目撃者の証言だが、なぜ話してくれないかはわからない。『自分も会社にお世話になっているから』と言った人がいた」

Bさん「自分はここの徳重の出身で、15、6歳から土方に出て、光洋炭坑で働いていた。ここは中間市のOという暴力団が労務としてアッセイヤマをしきっていた。中国人労働者の住まいは囲いでしきられていた。16、7歳の時、ボタ山で働いていて脱走した朝鮮人を二日も三日も暴力団が事務所でぶったたいて死んだ人をボタ山に埋めたのを見た。そういうことを平気でやっていた」

Cさん「宇美の堅田炭坑の大爆発の時も、中国人、朝鮮人が犠牲になった。自分は19歳まで日炭高松で働いていたが、そこには500人以上の中国人・朝鮮人が働いていた。こういうのは行政の言い分だけでは確認ができない」

Dさん「捕虜を働かせていたのもあった」

岩佐先生「町の人には捕虜をつかまえてきた、と言っていたケースもある。町の人の憎しみを増すためである」

Eさん「地元の自分たちが、個々の状況を調査してまとめる必要がある。朝鮮の人の歴史は若松にもある。こうしたことの実態を、見た者がいる内に広く知らせるべきである。日中問題と憲法の問題は裏表の関係にある。暴力団と炭坑は関係が深いという事実もある」

発言はなかなか終わりませんでしたが、最後に岩佐先生が「忘れていましたが」と、資料に使った「新しい教科書」のアジアの地図が、靖国神社遊就館の図録に掲載されているものとそっくり同じなのを指摘して「誰か気づいてるんですかねえ」とおっしゃったのも印象的でした。思わず笑ったのですが、笑う場合ではなかったかもしれません。(板坂記)

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