九条の会関係日の丸とテロリズム(4)

4.あえて、否定的なことばかり

平和教育について、それは正しいし必要だし、おそらく私が把握もしていないところで、大きな成果をあげて来ているだろうということは充分に理解しつつ、ここでは、あえて、そういうものに対して、いつも私が抱く疑問や抵抗感を徹底的にさらしておきたい。

私は専門が江戸文学なので、他の分野での授業や講演をしたことはあまりない。それでも、たまにそういうことをすると、関心を持って下さる方や感銘して下さる方がいる一方、きちんとまじめに平和や人権や民主主義を守る研究や活動をして来た人からは、拒絶反応にも似た激しい抵抗感を示されることがある。

一度授業で「戦争と文学」という講義をしたとき、一人の学生が終始徹底的に内容を否定し批判するレポートを書いた。それは、私が文学には戦争の魅力も描かれていることを紹介したことへの反発で、そのような観点を持ちこむことは許されないという怒りが基本になっていたと思う。また私が「なぜ人を殺してはいけないか」というテーマで授業計画を立てたとき、リベラルな立場で国際的な分野の学問をしている同僚は、そのようなテーマでものを考えること自体に強い抵抗を示し続けた。私が参加し活動している「九条の会」の講演会で私が周囲に逆らって戦争反対を貫く困難さについて文学を通して語ったとき、受講者の一人の熱心な平和運動家は、「何を言いたいのかわからず、ずっといらいらして聞いていた」と発言し、いらだちを隠さず、他の人たちも何となく納得できない顔をしていた。

最初の学生はおそらく、平和授業を熱心に学び自分の信念とした人だろうと私には見当がついた。殺人の可否を問いかける授業について、その同僚と同じように嫌悪や拒否感を持つ人は、いっしょに組合活動もしていて人格も学識も信頼できる他の多くの同僚の中にも多かったろう、いやほとんど全員そうだったのではないかと私は推測できる。「九条の会」の講演についても、私は次第に、ああ、この人たちは、あいまいな話や結論のわからない話は嫌いなのだなあ、自分のしていることに確信を抱いてまた明日から活動をがんばれるように元気が出る、そういう話しか聞きたくないのだろうなあと理解しはじめている。

そこにあるのは、迷いへの拒絶だ。混迷への恐怖だ。敵と味方が明白で、怒りを向ける対象と、その原因が明白で、戦いに使える武器がひとつでもほしい、そんな資料になる話を聞きたいという熱望だ。
その熱意と確信を少しでも薄め冷まさせるものは、すべて拒否され敵視される。

言っておくが、そのような精神も貴重だし必要だ。そういう心と行動によって、正義も平和も守られて来たことを忘れてはならないだろう。
私自身も集会や街頭宣伝では、熱く激しく敵を攻撃し味方を鼓舞し、人々を燃え上がらせることをめざして語ることも多い。おそらくそれだから、まあ何とかかろうじて、私はそういう仲間から信頼されるのだろう。しかし、自分の本当の役割は、そういうことではないだろうと私は常に考えてもいる。それは私が文学に携わる人間だからか、もっと根本的なところでの私自身の性格なのか、それは私にもわからない。

中学か高校のころ、「私にはロシアがある」という新書版の本を読んだことがある。第二次大戦のとき、ドイツがソ連に侵略し、それに対して戦って死んだ兵士や市民の遺書だった。レジスタンスを行って逮捕され拷問にかけられ殺された少女、地平線に見える敵の戦車に応戦しながら煙草の巻紙に走り書きした兵士など、老若男女を問わずあらゆる人々の時には数行の書き置きの与える迫力はすさまじく、そこにあふれる祖国への愛、侵略者への怒りに私は強い感銘を受け、その人たちの一人一人を心から愛した。

それでなお、当時の日記に私は書かずにいられなかった。「この人たちを本当に好きでたまらない。でも、その一方で思わずにはいられない。この人たちは天皇制下の日本や、ヒトラーの支配するナチスドイツに生まれて育ったら、どうだったろう。同じように祖国を愛し、敵と戦って命を捧げたのだろうか。それとも、そうではなかったろうか。私が今、彼らによせる信頼と愛情と共感は、その時にも今と同じだろうか」。
私は、そういう子どもだった。それは家庭環境やDNAの問題というより、ただやたらにたくさんの小説と本を読み、その中の登場人物に心をよりそわせて生きていたからだろう。それ以外の原因を思いつけない。

そして、今思えば、戦後間もない民主主義の華やかな時代と言っても、私の育った田舎では、学校の先生たちでさえ、平和教育どころか、軍隊時代の体験を面白おかしく楽しく語って生徒の人気を集めていた。町内会などの宴席では軍隊帰りのおじさんたちが、中国人を重ねて並ばせてどこまで弾が通るか端から撃って実験したとか、中国人の母子に性行為を強要して遊んだとかいう話を普通に口にしていた。子どもの私はそういう席には出ないから聞かなかったが、母は聞いていて、教えてくれた。のちに、日本は中国で残虐行為をしていないという論調が広まったとき、母はあきれたように「だって皆はそんな話、しょっちゅう話していたよ」とくり返していた。村の男たちは特に異常者でも変質者でもあったのではない。特に自慢して話したのでもない。要するに、それは普通の体験談だった。中国人や朝鮮人への根強い蔑視と同様に、それは村の生活の土壌をなしていたし、学校でさえ、その雰囲気は例外ではなかった。

だからこそ、私は本や新聞や雑誌で読む、周囲の古臭い現実とはかけはなれた平和や民主主義や戦争反対に共感し、あこがれたのだと思う。ちなみに家の中でも、祖父母はしっかり保守派だったから、私と母は少数派の抵抗勢力だった。つまり学校でも地域でも家庭でも、私は多数派や上に立つ者への反感や抵抗として、平和や民主主義を熱烈に愛し求めた。
もし、それが、平和教育として、自分の上に立つ人たちから一方的に教えられ、反論や異論を許されず、そして、その人たちが同時に自分を指導し規制し、時に自分や友人に体罰も含めた処罰も与える存在であったなら、私の思想信条がどうなっていたか、見当はつかない。もしかしたら、学校で教えられない情報、禁じられている本を探して読みふけり、いわゆるネトウヨになった可能性は決して低くはないと思う。

日本のアジアでの戦争犯罪に注目し、日本の戦争責任を教える平和授業と、それを支える日教組をはじめとした先生たちの教育現場について、私が得る情報は、大学以来の親友の中学教師の語る話、教育大学での教え子たちの、教師として就職後の体験談、生徒として授業を受けた体験談、自分自身がいろんな集会や学習会で聞く現場の先生の授業報告、その程度しか窓口はない。
その中で私がずっと抱き続けた、疑問や不安は、たとえば次のようなことだった。

友人や教え子が語る、スカートの丈やその他に関するこまごまとした規制と罰則。体罰も普通に行われる指導の数々。高校のころ、先生方と直接対決はしなかったが、その分いたずらを交えた反抗であらゆる規則を破り続けることを生きがいにしていた私にとって、そのような行為をする教師は「キャッチ22」のヨッサリアンの決意同様、決して信じも愛しもしないし、彼らが口にする思想や理想がどんなに正しく美しくても決して認めはしないだろうと、聞くたびにほぼ確信した。

私の研究室で人生やその他を語り、深く信頼していた学生が、教師になって組合に入らなかったり、強く反発する場合がしばしばあったこと。どう考えても組合活動に最もふさわしい、孤立も弾圧も決して恐れない人柄のはずなのに、彼らが権威や圧力への反抗する対象として、政府や校長以前に組合を選んでいること。それは友人が時に語る、「組合に入っていないと、とてもやっていけない」というような、ごく自然な発言とも重なって、ナチスドイツや天皇制日本を批判し攻撃するはずの存在が、それと同様の雰囲気で職場を支配し、人々を束縛し、逆らう人々を許さない者になっているのではないかという疑いを生んだ。

同様に深い思索や広い視野を持つ、知的にも人間的にもすぐれた学生が、学校で受けた平和教育に好感を持っておらず、「日本が悪いとくり返されると、本当にいやな思いがしたし救いがなかった」というような、ネトウヨと言われる人たちの主張とまったく同じ感想を持っていたこと。
一方で教師をしている教え子から、平和教育のよい教材はないかと相談されることも時々あり、あまりというよりまるで役に立たないまま、相談にのったりするのだが、その教え子が悪いわけでは決して絶対にないのだが、「何かいい材料はないか」と聞いて探している様子が、ものすごくその場しのぎの場当たり的なものにしか見えないこと。
私などにまで聞いてくることからも明らかなように、そういった教え子は皆優秀で誠実で熱心である。それでも、その姿勢にはどういうか、厚みもなければ重みもない。そもそも教師とはそういうものかもしれないが、「こういうのに役立つ資料は」と結論から先に決めて効果あるものを探す程度で、日本兵の残虐や戦争の悲惨を伝えられるものだろうか。

資料や授業内容について言うなら、作家の住井すゑ氏が「戦争は恐い、と教えるんじゃだめなんです。戦争は悪い、と教えなくてはなりません」と言うように、私は平和教育をするなら欠かせないのは、戦争犯罪人の指摘と告発であり、それは天皇制と私たち一般の国民の責任を問うことだと考える。
天皇制を批判できないのは、いろいろな力関係もある現実的判断だろうが、そこを明確にしない限り、戦争の実態も本質もわからない。一般庶民の責任については、それにふれた私の講演には拒絶反応が強かったし、そこを見事に描いた小説、中島京子の「小さいおうち」は、山田太一監督の映画化の際、成功したと言えなかった。庶民は悪くない、天皇には触れない、かくして平和教育の戦争反対は、誰もがいやだったのに戦争は起こったというふしぎな話にしかならない。そしてしばしば、戦争責任はとりようもない子どもを描いて戦争の無惨さを訴える。外国映画「ソフィーの選択」「生きるために」などが、最大の被害者である主人公たちが犯した戦争時の罪を容赦なく告発するのと、それはあまりに大きな差である。(つづく)

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カツジ猫