九条の会関係私はパラオで戦った

福岡教育大学で「小さな講演会」
吉田照雄さんを招いて学生・教職員30名が戦争の実態を聞く

去年(多分10年近く前です。2015年追記)の暮、12月21日に、福岡教育大学の「九条の会」の主催で、「小さな講演会」の第一回が同大学の城山会館(職員会館)で開かれました。体調がすぐれず検査入院という事で心配されていた吉田さんでしたが、明るく元気に思い出話を熱をこめて生き生きと語って下さいました。
以下は当日のお話を板坂が要約したものです。

私は今八十四歳です。今日皆さんにどうしてもお話したいのは、「戦争は誰もを不幸にする」ということです。戦争で幸せになる者はいません。映画やテレビでは特攻隊とかヤマトとかで美しく描いてますが、戦争は美しくありません。
今日は私が自分で見たこと、感じたことだけを話します。私はここの河東の生れで、両親と弟や妹、五人の兄弟姉妹でした。私が長男でした。四歳の弟を除いて男は皆戦争に行きました。弟の一人は満蒙開拓義勇軍、もう一人は予科連です。

母は私が満州にいる時に死にました。私が出征する時、私の顔をじっと見て何も言いませんでした。父は戦後私が戦地から帰ってきて小倉の病院にいる時に死にました。二十六歳で私が家に戻った時、家には誰もいないし仕事もありませんでした。これは特別なことではありません。そういう家ばかりでした。

私は十四歳で徳重の醤油屋に奉公しました。その後、学校に行かせてもらえるという約束で北九州の商店に行きましたが、学校に行かせてもらえず、ぐれました。そして駅員になり炭鉱にも行きました。炭鉱では朝鮮の人たちがひどい扱いをされているのも見ました。 昭和十六年に兵隊検査に合格しました。最初は満州にいましたが初年兵教育係をやめさせてくれと言ったら、ニューギニアに追いやられました。
戦後、帰国してからは母の同級生の校長に誘われ、二十六歳で学校の小使いになり十四年つとめました。先生たちが毎日なかなか帰らないので小使いで組合を作って、早く帰ってくれるよう闘争もしました。また給食婦さんたちの待遇改善にも取り組みました。
その後、労働組合の専従になって北九州自治労の責任者になり、政治闘争もしました。共産党から出てくれと頼まれて、北九州の市議会議員になり、五市合併問題に取り組み、その後も組合を作ったり宗像市長や国会議員の選挙に立候補したりしました。そして法律事務所の仕事をして、年金問題や同和問題に取り組んできました。
これが私の経歴です。

戦争について話しますが、戦争は暴力を普通にしてしまいます。愛があったら手でたたくぐらいはいいと思いますが、軍隊では上靴(じょうか=革のスリッパ)でたたくのです。 私は最初は軍隊は好きでした。東大出も学歴のない自分も星一つ(二等兵)から出発するのが公平だったからです。
しかし、対抗ビンタなどというのは、兵隊を二列に並べて向かい合わせて互いをなぐらせるのです。最初は同じ仲間だからそっとなぐります。しかし上官から怒られるし、何かのはずみで誰かが力を入れてなぐってしまうと、相手も腹が立って力いっぱいなぐり返す。そうやっておたがいを思い切りなぐり合うのです。そういうことを初年兵教育で自分はしたくなかった。

満州で私は毒ガス係も担当していました。糜爛(びらん)ガスとか、催涙ガスとか。催涙ガスの効果は屋外でためします。周囲の現地の住民のことなど考えません。侵略の意図はなかったと言いますが、当時私たちは「万里の頂上でしょんべんすればよー、ゴビの砂漠に虹がたつよー」「霧の晴れたるロンドン町でよー、孫の詣でる忠魂碑よー」などという「世界制覇の歌」というのを歌っていました。そういう歌を歌いながら毒ガス弾を打ち上げます。風上でそれを打ち上げると、現地の人が畑仕事をしていたら、ひっくりかえって泡を吹いて倒れていました。彼らは抗議などできません。我々も気にもしない。彼らの畑のキビをかっぱらって帰ります。それでも彼らは抗議もできなかった。

私はだんだん軍隊に疑問を抱きはじめました。それは軍事教練やその他のことで、上官たちのすることが公正でないのを感じたからです。上官の間違いを指摘して恥をかかせたら恨まれることもありました。
そういう背景もあって、自分ともう一人が初年兵の教育係を辞退させてくれと申し出ると上官は怒って上靴で私たちを殴って半殺しにしました。たたかれた数を二十八までは数えたが、あとはわかりません。そして上官反抗ということでニューギニアに飛ばされました。八人で新疆で部隊を編成して「被服移動修理班」になりました。
上官反抗という罪名は終戦までついてまわるから、進級はありませんでした。「天皇陛下の命令に逆らった」ということになるからです。国民は「朕が思わず屁をひって汝臣民臭かろう」などと陰でパロディを作ったりしていましたが、「ほまれ」という恩賜の煙草があったりして、当時天皇の命令は絶対でした。

私はニューギニアで現地人や戦友との多くの愛情に恵まれました。いろんな人を助けたし、助けられました。だから生き残れました。それと、私たちの部隊が第一線で戦闘をする部隊ではなかったから生き残れたのです。
門司から船でパラオに行きました。艦砲射撃も体験しました。乗っていた船が爆撃されたこともありました。あれは恐いので皆海に飛び込むのですが、そうなると、川で魚を取る時にダイナマイトを使うのと同じで、爆弾が海に落ちた時の衝撃の水圧で、皆死にます。魚と同じことで、腹がさけて、はらわたが出て、魚のようにぷかぷか浮かんでいます。それを見てからは誰も飛び込まなくなりました。
パラオは本当に美しいところで、沖までさんご礁でした。パラオ島民は日本の義務教育を四年間受けていました。パラオの主食はタピオカという粉ですが、米を食べたがるようになっていて、日本兵は靴下に米を詰めていって酋長の家に上がったりしていました。義務教育を受けているから、まっ黒い肌の人たちが「ございますわね」などと、きれいな標準語をしゃべるのです。私たちに「話を聞かせてくれ」とたのむので「桃太郎」の話などすると喜ばれました。私は現地の娘さんからもらったパナマの布の煙草入れを持っていました。

急に暑くなって病死する者も出ました。そういうのは海岸で焼きました。
人間の生命力は大変なものです。Kという兵士がいましたが、近くの集落に行っていてやしの実を食べている時、そこの住民に斧で頭を一撃されて顔をまっぷたつにされて、ふらふら歩いて帰ってきました。片方の目は飛び出しているし、のどの中まで外から見えているのですが、それでも死ななかった。とにかく寝せていたら、夜に起きてどうなっているか見たいから鏡を見せろと言いましたが、ショックで死ぬと思ったから見せませんでした。結局彼はそれでは死ななくて、最後は餓死しました。
現地の住民は木をたたいて、その音で集落から集落へ連絡するのです。そうやって昨日まではこちらの味方でもいつ寝返るかわからない。Kもそれでやられて、いっしょに行っていたYもあとで死体が見つかりました。こちらは肩に小さい傷があっただけですが、気絶してそのまま死んだのです。

海岸で、私のいた隣りのテントが爆撃されたこともあります。十八人が中で寝ていたのですが直撃を受けて皆死んで、死体も飛び散って肉の破片がヤシの木の幹に食い込んで、取れないままに腐って臭いといったらなかったです。それまでは私たちはバカにして防空壕を掘るのもサボっていたのですが、それを見てすぐに一日で掘って日暮れには飛び込みました。恐怖で気が狂う者もいました。
ニューギニアには全部で二十三万人の兵士がいたのですが、生き残ったのは九千六百人です。私が死ななかったのは前線に行かなかったからです。豪州兵が上陸するまでは海岸に居ました。その後は、山に入りました。
いろいろ要領があって、敵と遭った時、最初に飛び出した人は死にません。相手が狙いをつける暇がないからです。二、三人目がやられます。
現地の人にも助けられました。海軍が入って宣撫工作をしていたし、現地の人の養子になって食料をもらうようにしていた人もいます。

山に入る時、水はなくても塩を持って行けと言われました。その意味がわからなかったけれど、本当に人間は塩がないと生きられません。
私は栄養失調で皮膚病になり、睾丸を抱えて歩くほど身体がむくみました。そうやって水分がたまって歩けなくなり、皆死んで行くのです。死ぬ時は皆「お母さん」としか言いませんでした。夢に見る食べ物は皆子どもの頃のもので、ごはん、だいこおろし、いわしの塩焼きです。それと母親です。小倉の陸軍病院で医者や皆が見ている中で死んだ戦友が口の中で「天皇陛下万歳」と言ったのしか、自分は「お母さん」以外の言葉を聞いたことがありません。

ニューギニアには外国の兵隊もたくさんいました。インド人の捕虜が三千人ほどいて、曹長までは進級できました。竹の棒を持って荷揚げをしていました。黒人の大学教授の大尉もいました。台湾の高砂族も三万人いて、巡査さんでした。平均年齢は十八歳でした。

私たちが引き上げる時に、絶対言うなと言われたのは「捕虜をどうしたか」「人肉を食べたか」の二つでした。人肉には塩分があるし、食べたはずだと思います。
ある集落で現地の人から「日本人は人間を食うのか」と責められたことがあります。勇敢な日本の部隊が現地人を殺して食べて、首を集落の前においておいたというのです。
現地人との関係には気をつかいました。彼らの武器は竹槍で、投げ合って戦っていました。夫婦喧嘩の仲裁を頼まれたりもしました。山奥の集落では全裸で、略奪結婚も行われていました。日本人の兵隊も加勢を頼まれたが行きませんでした。近親結婚が多いから胎毒が多く、平均寿命は四十歳ぐらいでした。もともと英国やオランダが支配していたところで、英国は酋長の少年に英語を教え、二年間ほど使用人にした後、蛮刀一本やって支配したりしていました。

海岸にはヤシの木があって、爆撃は恐いが、それで大きなトカゲが落ちて来るので、それをつかまえて食べて生きのびられました。ネズミも食べました。
現地人に対して日本人は、いつ寝返るか疑心暗鬼で、敵になったと思った集落で女子どもまでを家につめこんで手榴弾で殺したりしました。そういう噂がすぐ伝わって、我々がいい関係を築くのが難しくなります。
ヤシの木は現地の人にとって非常に大切なもので、実がなるようになるまで二十年かかるので、我々がそれを切っていると泣き声が聞こえてくる。それで話し合って切らないようにしたりしました。子どもと婦人が出てきて交流しはじめると、本当に信頼されているとわかります。しかし、どうも様子がおかしい、襲われそうだと思っていると果たしてテントに手榴弾を投げ込まれたりしました。その時は用心していたから負傷者が一人ですみました。翌日、その村の村長は私たちを見てものかげに隠れていました。そういうところは無邪気でした。

最後の頃、私の部隊は、弱っている十五人に二日分の食料を渡して追放しました。何もできないから泥棒をします。現地人の芋を盗んだりする。よその兵士から文句を言われてジャングルへ入るしかない。
十五人の内十二人は部隊に帰ると言いました。私とTともう一人は帰らずに高砂族のところに居候していました。
七月三十日に部隊長会議で玉砕命令が出たのですが、そこで私たちは逃亡兵扱いになっていると知りました。私は腹が立ったので帰ると言いました。Tは魚を腹いっぱい食べて死にたいと言って帰りませんでした。私を引き止めましたが、私は隊長に抗議したくて戻りました。自分の部隊の一つ手前の部隊に着いたとき、八月十五日になりました。

そして隊長に会ったら、おまえは逃亡兵だから銃殺だと言われました。しかし許してやるから荷物を運べと言われました。部隊の司令官が敵と調印して降服したのが八月二十四日です。私たちが海岸に出たのが十月二日でした。
一日に四百メートルはって進むのがやっとでした。互いに見ても、死体の服をはいで着ていますから、将校か何かもわからない。途中で餓死した死体がごろごろしていました。腹がふくれて黒くなり、生きたままの人間の顔を大きなウジが食べていました。隣りの死体の臓物を食っている者もいました。私たちも何でも食べました。蜘蛛はまずかった。のどにひっかかって、かさかさします。おたまじゃくしもイナゴも食べました。
水のあるところに死体が多かった。一休みしてそのままになるのです。

私は海岸で激しい下痢をして身体の水がすべて出て、それで助かりました。一度心臓がとまりましたが、Aという戦友たちがゆすりおこしてくれました。病院に行っても、昔助けた人たちがこっそり薬や食物をくれて、氷川丸という早い病院船で浦賀に帰りました。 その間にもいろんな話を聞きました。上官との確執やそれにまつわる話も多かった。

私が今一番言いたいことは、絶対に戦争をしてはいけないということです。誰にもいいことはありません。若い皆さんにそのことを伝えたい。私の身体もぼろぼろで、首には今でも手榴弾のかけらが入ったままですが、もう少し長生きしたいと思っています。できたら家内といっしょに長生きしたいですな。

参加者の感想

こういう体験談は誇張しているとか嘘だとかよく言われるのですが、吉田さんのお話はただ戦争の残酷さだけでなく、軍隊という組織の持つ性格や、異なる文化の人々との交流や、その中で生きた吉田さんの個性などが生き生きとうかがわれて、なるほどこれが体験談の強みだと実感しました。
悲惨な話のはずなのに、まるで冒険談のような楽しささえ感じてしまう。それは、その中で誠実に勇敢に生きた吉田さんのお人柄もあるのでしょうが、死んだ戦友たちの話からも、人間というものの強さや気高さが伝わって来ます。
たとえば、現地の人といい関係を結ぼうと努力している兵士たちにとって、同じ日本軍の蛮行がどれだけマイナスになるかという歯ぎしりするような状況も実にリアルに理解できます。
戦争は悲惨だ、悪だ、と理屈やスローガンで言うのではなく、こういう雑多で複雑な状況をもっともっと知ることが重要と痛感しました。
もっともっとお話を聞きたいし、他の方の体験談も聞きたい。また、このお話についても語りたいことは限りがないし、戦後に生まれた私自身のこの60年についても語りたい。そんな思いのこみあげてくる二時間でした。ありがとうございました。(板坂耀子)

追記

その後、テレビの番組でたまたまパラオが映りました。本当に美しい海と空でした。島の緑も深く、現地の人たちの素朴な生活も映りました。そこに石と木を組み合わせた手斧もあって、これでKさんが頭を割られたのかとふと思いました。思ったより小さいかわいくさえある手斧でした。
女子どもが出てくると、本当に現地の人に信頼されているというお話も、その後思い当たったのですが、映画「七人の侍」もそうだったなあと気づきました。戦争体験者の人たちからすると、あれもリアルな映像だったのですね。
私が「どこか楽しくさえある」と言った感想は誤解されそうですが、でも、若い人たちの中には、平和を愛するからこそ、凄惨な戦争や弾圧の話は聞きたくない、聞けないという人も少なくないと思います。私はそれは間違いだと思いますけど、でも、無理に聞かせるのもよくないと思うし、迷います。そういう問題の解決の一つも、ここにあると思うのです。どんな悲惨で残酷な状況でも、どこか明るい楽しさや力強さは人間が生きている限り、どこかにある。吉田さんのこういうお話なら、戦争の話は救いがなくていや、という人たちも聞いて元気になれると思えたのです。(板坂耀子)

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